【江戸時代を学ぶ】 関東取締出役(八州廻り)の実像 後編 〈25JKI00〉

【江戸時代を学ぶ】関東取締出役(八州廻り)の実像”も後編、最終回となった。そこで今回は、出役の活動時期の中でも後半部分を中心に話を進めていくとしよう。

即ち、天保期以降の出役の行動実態を解き明かし、更に幕末における刑事警察から公安警察への移行や非常人足等の民兵部隊に支えられた準軍事組織の司令塔となるに至る道程を辿って、その活動の実像に迫りたいと思う‥‥。

前編はこちらから ⇒ 【江戸時代を学ぶ】 関東取締出役(八州廻り)の実像 前編

中編はこちらから ⇒ 【江戸時代を学ぶ】 関東取締出役(八州廻り)の実像 中編

 

1. 天保・弘化期の出役

天保期の関東取締出役に関しては、改革組合村を基盤とした体制が有効に機能して、その治安維持能力の大幅拡大に繋がったとされる。特に、重犯罪者その者については当然ながら、博徒や無宿者における犯罪者予備軍や不穏分子についての情報収集力が格段に向上し、囮捜査や潜入捜査も頻繁に行われていた模様である。

また幕府は天保期に入ると組合村組織の改編を実行、大惣代の任命を徹底し小惣代・大惣代や寄場役人による組合村の管理運営の強化を断行した。

特に天保4年(1833年)には各寄場に囚人圏/囲補理場(仮牢屋・留置場、以下では囚人圏に統一)を組合村の費用負担で設置する様に命じ、より一層、組合村組織に警察権力・治安維持体制強化の一翼を担わせる方針を打ち出している。

※ここでの圏(おり)とは、家畜などを飼う為に、巻付ける様にした囲いが字源である。囹圄/囹圉(れいぎょ)とも言い、囚人を捕らえて閉じこめておく場所であり、囲補理場とも呼ばれて警察機能の強化の為、治安が乱れていた関八州の改革組合村の各拠点・寄場に造った仮牢をそう呼称した。

※寄場においては囚人圏の設営と管理全般、例えば囚人/科人とがにん)の食事などの対応から圏の番人の派遣や番人に関する経費等も負担した。

※関東取締出役によって捕えられた犯罪者は近在に設置された囚人圏に一時預けられ、その後江戸へと移送された。

だが天保期には、既に述べた様な大規模な災害や飢饉、社会構造の変化等を原因としてそれ以前の時期に比して更に離農者が増えて、村々では耕作者が減り荒地が増大していった。例えば上州(上野国)では突然の蒸発者を風と出者(ふとでもの)”もしくは“不斗出者”と呼び、これらが多数発生したことで街道沿いの町村の人口は激減、助郷免除の嘆願も多く出された。彼らは行方不明となった1年後には帳外れ、戸籍台帳や宗門別人別帳より除かれてその存在は無き者とされた。

こうした者の多くが遊民化し悪党となったり、特に博徒となる者が多かった。その為、天保期の出役の業務は、一般的な重犯罪者の捜査・逮捕と云うよりは、集団(一味・一家)で活動する博徒に対する取り締まり強化が大きなウェイトを占める様になっていく。

そしてこの頃、関八州では田舎博徒が諸処に跋扈し、“空っ風”の上州(上野国)には大前田英五郎、国定忠治などの大物博徒が現れた。また浪曲や講談で有名な『天保水滸伝の登場人物である博徒・笹川繁蔵と博徒で道案内の飯岡助五郎などの縄張り争いにも、出役が重要な役割を果たした

※大前田 英五郎(おおまえだ えいごろう)は、江戸時代末期に活躍した侠客で本姓は田島と云った。寛政5年(1793年)に生まれ、明治7年(1874年)2月26日に亡くなり、博徒としては稀な享年は82歳と高齢であった。上州勢多(せた)郡大前田村の名主の家系に生まれたが、父・兄ともに博徒となっており、彼も若干13歳で関東取締出役の道案内をする佐十郎の子分となったとも伝わる。15歳で地元の博徒の縄張り争いに加わり、25歳の時に博徒・久宮丈八を殺してお尋ね者となった。以後、国を転々とした末に関東取締出役に捕らえられ佐渡へと(佐渡銀山の人足として)送られたが、後に島抜けをして一旦は郷里に帰ったとされる。その後、尾張藩の庇護を受けて十手を預かり目明しとなると、名古屋を中心に東海道筋で勢力を振るって多数の子分をもち、“二足の草鞋を履く大親分となった。特に侠客同士の縄張り争いの仲裁役として本領を発揮し、和合人(わごうじん)”と呼ばれ、その気っ風(きっぷ)の良さに腕っ節の強さが相俟って一大顔役として関東一円から東海地方にまで影響力を持っに至る。また新門辰五郎、江戸屋寅五郎と共に“関東の三五郎”とも呼ばれて畏敬を受けた。しかも一貫して権力(幕府)に立ち向かった武闘派博徒の国定忠治とは異なり、“二足の草鞋”を巧みに使い分けて寿命を全うし、晩年は郷里の大前田に帰郷して82歳の大往生を遂げたのである。

※“二足の草鞋を履く”とは、両立し得ないような二つの職業を一人で兼任すること。その語源は、江戸時代において博徒が十手を預かり、同じ博徒を取り締まる捕吏を兼ねたことから生まれた諺である。

笹川繁蔵(ささがわのしげぞう)は、本名を岩瀬繁蔵と言い、文化7年(1810年)に生まれ、弘化4年(1847年)に死亡した江戸時代の侠客で、千賀ノ浦部屋に籍を置いた角力(力士)だったとも伝わる。また、講談『天保水滸伝』の同名登場人物のモデルである。下総国海上郡(現在の千葉県香取郡東庄町)に居住し、生家があった笹川河岸付近を縄張りとして名を馳せた博徒の大親分である。高名な子分には、剣客・平手造酒や勢力富五郎(後述)などがいる。十手持ちの(“二足の草鞋”を履いていた)飯岡助五郎と縄張りを巡って覇権を争う。天保15年(1844年)8月6日に、関東取締出役から繁蔵の召し捕りを命ぜられた飯岡助五郎と従来からの縄張り争いの因縁も加わって大利根河原を舞台に大決戦を繰り広げたが、結果は笹川一家が優勢で飯岡一家の撃退に成功する。その後、姿をくらましていた繁蔵が帰郷したところ弘化4年7月4日(1847年8月14日助五郎の子分たちの闇討ちにあって暗殺されてしまう。

※飯岡助五郎とは、江戸後期の侠客で本名は石渡助五郎。寛政4年(1792年)、相模国三浦郡公郷村山崎の生まれと云われる。四股名を綱ケ崎と名乗った相撲取りを1年余で廃業後に、干鰯景気で沸く上総九十九里浜の作田浜で漁師となったが、25歳になった文化14年(1817年)、飯岡一帯に縄張りをもつ博徒の親分で網元でもある銚子の五郎蔵の子分となり、やがて飯岡浜一帯の縄張りを譲り受けて博徒の親分となる。天保11年(1840年)には相撲会所から「近国近在相撲世話人」の証状を受け、また関東取締出役の道案内を務める“二足の草鞋”の博徒の親分となったが、この頃、台頭してきた近隣の新興博徒・笹川繁蔵と争う事態となる。関東取締出役からの繁蔵召し捕り命令に乗じて対決を実行するが、大利根河原の決闘では召し捕りに失敗してしまい、自身は借牢の処分を受けるはめとなったが、弘化4年(1847年)に繁蔵を暗殺し、嘉永2年(1849年)、出役が繁蔵残党の勢力富五郎らを自刃させたことで一件は落着した。後世においては、講談や浪曲などの影響で判官贔屓も手伝ってか庶民の間では悪役の役回りとなったが、実際の彼は博徒としては長寿であり、安政6年(1859年)4月14日に67歳で病没している。

 

スペシャルダイジェスト:国定忠治と出役の戦い

ここで天保期博徒の代名詞、国定忠治とその一味を追った関東取締出役の、天保5年(1834年)から嘉永3年(1850年)の捕縛・処刑に至るまでの活動をダイジェストとして紹介する。まさしくこの時期の出役と博徒集団との戦いの日々が集約されているとも言える年表となっていよう。

さて国定忠治とは、多数の配下を率いて上州から信州一帯を縄張りとして活動した江戸時代後期の代表的な博徒の親分である。天保の大飢饉で農民を救済した侠客として、講談浪曲映画新国劇大衆演劇などの演劇の題材となっているが、特に新国劇での「赤城の山も今宵限り~」の名文句は有名である。また通称の“国定”は生地である上州(上野国)佐位郡国定村に由来しているが、本名は長岡忠次郎と云った。国定村の富農・長岡与五左衛門の子として生まれたが、若くから遊侠の徒に交わり、21歳にして大前田英五郎から縄張りを譲られて百々村(どうどうむら)で博徒の親分となったとも伝わる。島村の伊三郎殺しをはじめとして、多くの殺傷や違法賭博行為、そして重罪の関所破りなどを重ねた末に捕らえられて、磔となる。

・天保5年7月13日(1834年8月17日)、関東取締出役に境村の村方三役が国定忠治逮捕協力請書を提出した。またこの境村とは、現在の群馬県伊勢崎市にある地名である。更にこの時の出役は、吉田左五郎と河野啓助、太田平助、そして小池三郎であった。ちなみにこの年(天保5年)、忠治は敵対する島村伊三郎を殺害してその縄張りを奪うが、一時期、関東取締出役の追及を恐れて出役の管轄外であった信州へ逃走、その後に上州へと舞い戻り一家を成した。

・天保6年(1835年)には、玉村兄弟が山王堂村の山王民五郎(忠治の義理の子)の賭場を荒らしたことから対立が激化、民五郎を加勢して玉村兄弟を襲撃・排除した。またこの頃、忠治は飢饉に苦しむ彼の実効支配地域(盗区)の村々への賑救(しんきゅう)を行っていたとされる。

・天保9年(1838年)3月には、関東取締出役率いる捕手部隊が世良田(現在に群馬県太田市世良田町)にあった忠治の賭場を急襲して三木文蔵らを逮捕した。そこで忠治は文蔵の奪還を試みるが失敗、この時、忠治は文蔵に加えて子分の神崎友五郎や八寸才助(才市)らも捕縛・処刑され、彼の一味は大打撃を受けた。 

※三木(三ツ木の)文蔵は、上野国新田郡三ツ木村生まれの無宿人。国定忠治の代貸、手裏剣に巧みであったとされる。天保5年(1834年)に忠治と共に島村伊三郎を殺害し殺し、天保9年(8年説あり)に捕らえられて、江戸・小塚原で処刑された。墓碑によれば天保11年(1840年)6月29日に32歳で死去したともされる。

・天保9年3月27日(1838年4月21日)、関東取締出役が世良田の村役人に忠治一味の探索を指示したとの記録が残る。

・天保10年(1839年)、関東取締出役は不正出役を廃し人員を一新して捜査体制の強化を図り忠治一味の追跡を試みているが、捕縛には成功していない。

・天保13年には老中・水野忠邦が将軍徳川家慶による日光参詣を67年ぶりに企図し、同年4月13日から4月21日にかけて実施された。これに伴い幕府は博徒・無宿の取り締まりを強化した。

・天保13年(1842年)8月に忠治は出役の道案内の三室勘助・太良吉親子を子分の浅次郎に命じて殺害し、この勘助殺しにより中山誠一郎ら関東取締出役は警戒を強化し忠治一味の一斉手配を行う。

・天保13年8月19日(1842年9月23日)に、関東取締出役が田部井(現在の群馬県伊勢崎田部井町)の賭場を捜索。しかし国定忠治・日光円蔵は逃亡してしまう。

・天保13年9月17日(1842年10月20日)、関東取締出役が国定忠治らの特別逮捕令を発する。

・天保13年9月20日(1842年10月23日)、関東取締出役が国定忠治らの手配書を出す。この時の手配書の署名者は、石井多七郎と桧山近平であった。

・同月、忠治は上野国吾妻郡大戸村、信州街道に設置されていた大戸の関所(現在の群馬県吾妻郡東吾妻町大戸)を突破して信州方面へ逃走するが、この時、日光円蔵や浅次郎らの子分を失っている。

・天保13年11月18日(1842年12月19日)、伊勢崎へ出張中の関東取締出役が日光円蔵の逮捕の回状を出す。

※日光円蔵(にっこうのえんぞう)、元は下野国日光街道板橋宿出身の晃圓(こうえん)という名の僧であったが、やがて博徒となり国定忠治の一の子分におさまり、日光円蔵と称する。「その性機敏にして頓才に秀れ」ていたとされ、忠治の軍師・参謀的な存在となる。島村伊三郎殺しや三室勘助殺害などに関与して忠治と共に関東取締出役の最重要手配の人物の一人となったが、天保13年に捕らえられて42歳で牢死した。但し、逃亡に成功して藤沢遊行寺の僧になったとする珍説もある。

・弘化3年(1846年)、忠治は上州へと帰郷するが、この頃には中風を患っており、嘉永2年(1848年)には跡目を子分の境川安五郎に譲ったとされる。

・嘉永3年8月24日(1850年9月29日)に、関東取締出役の関畝四郎らが田部井村名主家において忠治の逮捕に成功、一家の主要な子分も同様に捕縛された。

・国定忠治は一旦江戸へと送られ小伝馬町の牢屋敷に入牢後、勘定奉行 兼 道中奉行の池田頼方の裁決を受けて大戸関所に移送されて、嘉永3年1850年)12月21日、大戸処刑場で磔の刑に処せられた。享年41歳。

こうして、さしもの大親分・国定忠治も出役により捕えられ刑死したが、この時期の関東取締出役と云えば、誰もが博徒追捕の任務を思い起こすほど、博徒との戦いが際立っていた様である。

次のページへ》  

《広告》