日本海軍最後の傑作戦闘機『紫電改』とは・・・後編 〈3JKI07〉

紫電改の評価

『紫電改』の性能は原型機の『紫電』よりも向上し、各種のトラブルが減じて実用性は大きく向上したとされる。具体的には低翼配置のオーソドックスな機体となったことで、前下方の視界が改善されたのに加え、トラブルの多かった主脚装置を改良し胴体そのものも長く細くして多少なりともスマートな機体となった。また、「自動空戦フラップ」などの装置も調整が進み、『紫電』に比べるとはるかに洗練されて全般的に高水準のスペックを持つ戦闘機に生まれ変わったのである。

しかしながら、生産開始が本土空襲が激化した昭和19年の末ということもあり、終戦までに420機±α程度しか生産されなかったことが、この機を評価する上での最大のマイナスポイントであることは前編でも述べた。これは『零戦』各バージョンの合計10,400~10,700機余(諸説あり)、また、これも既に触れた同時期の陸軍戦闘機『疾風』(キ84)の約3,500機と比べても明らかに見劣りする数である。

この生産数の少なさは、戦前の我国が本来有していた工業力の限界に加えて、戦争末期の人材・資材の欠乏と、それに輪を掛けた米国の戦略爆撃による強大な破壊力によるものであった。またより細かく検討すると、主たる製造拠点・工場の生産力に関して、川西と三菱や中島では格段の差があったことも挙げられよう。

更に“誉”発動機のトラブルに起因する稼働率の低下や熟練搭乗員の払底なども考慮すれば、到底、大幅な戦局の挽回は難しく、まさしく“焼け石に水”的な投入であり不運の機種となった。更に、種々の理由から仕様(スペック)通りの最高性能を引き出すことが難しかった為、大戦後半に登場した他の陸海軍機と同様に専門家の間でも評価の分かれる機体である。

だが、当時の日本海軍にとっては依然として『烈風』開発の目途が立たない状況の中、高性能化が顕著であった連合軍の新型戦闘機と対等に戦える実力を持つ『紫電改』は、前線部隊の若手パイロットや新鋭機を望んだ熟練搭乗員たちに、『零戦』の後継機として大いに歓迎されたのだった。次期主力戦闘機に選定されて、343空や横空などに集中的に配置されて戦果を残したことも事実だった。

岩下邦雄大尉

〈搭乗員の印象・感想、並びに評価〉
全般的に『紫電改』で戦った搭乗員からのこの機体に対する評価は高く、岩下邦雄(既出)は『F6F』と互角に戦える素晴らしい機体として歓迎した。堀光雄(前編で既出)は「軽戦に対する重戦でありながらも『零戦』の塁を摩(マ)する」また「『零戦』は軽戦、『紫電改』は重戦と言うべく十分使えた」とし、松場秋夫(301空戦闘601飛行隊、次いで341空戦闘701飛行隊や343空でも活躍したベテラン搭乗員で最終階級は中尉)は「『零戦』同様に使えた」と端的に評している。

343空飛行長の志賀淑雄(既出)は海軍航空技術廠で『紫電改』や『烈風』のテストパイロットを務めた経験を含めて、「『烈風』は使えない機体」(本人談)だと思ったという。それは「『零戦』の後継機とされていたが『零戦』を大きくしただけの機体であり、被弾面が大きくて防弾を考慮していないこと、またこの時期に必要とされた高々度性能や速度性能より格闘性能にこだわっていた」ことが理由だと云う。これに対して『紫電改』は、「何にでも噛みついていける猪のようなおてんば娘」と評価し、「使える機体だった」と述べている。

また本田稔(343空戦闘407飛行隊分隊士、最終階級は少尉)は、経験の少ない若年搭乗員でも編隊着陸が一様にできた操縦性や腕比利用(後述)による高・低速両用の良好な操縦性を評価し、また戦後の三菱テストパイロットとしての経験や海外からの情報により、大戦末期における日米制空戦闘機の双璧は『紫電改』と『P51』であったと述べている。

だが磯崎千利(戦闘第301飛行隊分隊長、最終階級は大尉)は『紫電改』を大いに評価しながらも、強いて欠点を挙げるならば高速ダイブ中の引き戻し(戻り)に対する強度不足が大きいと語った。

坂井三郎(大戦前期の撃墜王で著書『大空のサムライ』が有名。だが同僚パイロットからの人望は決して高くなく、あまり芳しくない評判が多い)は『紫電改』で実戦を戦ったことはないが搭乗員教育や訓練に携わった経験から、「航続力がない点からみれば『九六艦戦』(A5M)時代に逆戻りした感があるが、〈自動空戦フラップ〉などの極めて斬新な設計が施された優秀な戦闘機」と当初は評価していた。しかし晩年の坂井は、「制空戦闘機とも局地戦闘機ともいえない中途半端な戦闘機」と評して批判的な立場にまわった。

彼は343空に教官として着任した際に、「自動空戦フラップ」を「旋回性能は良くなるが、作動の面で信頼性に欠けた」とか「舵が効きすぎた時の修正が難しい」などと批判するが、その内容は「水銀の表面が酸化して導通が悪くなり、油圧機が誤作動する」などの、実際(本来、水銀は常温では酸化しない性質を有す)とは異なるものであった。尚、余談だが、その後の坂井は杉田庄一上飛曹(実力最上位級のエースパイロット、戦死後に二階級特進で少尉)や周囲の搭乗員たちとの不和などにより、杉田の戦死を受けて343空から横空へと、武藤金義少尉との交換トレード(実際には坂井+野口毅次郎少尉と武藤との2対1)で転属させられてしまう。

さて、こうして坂井の「自動空戦フラップ」への評価は芳しくなかったが、川西航空機検査部のテストパイロットだった岡安宗吉は「自動空戦フラップ」を高く評価していた。確かに試作機や初期量産型『紫電』において「自動空戦フラップ」のトラブル(漏れ出した水銀が発信器内を侵食した等)が頻発したが、この初期欠陥は順次改修され、その後に実戦に配備された『紫電』や『紫電改』においての故障は極めて少なくなっていたとされるのだ。

また佐藤精一郎(戦闘301飛行隊所属)も、失速性その他に注意しながらも『紫電改』で戦えたことを最高の誇りだと述べ、20mm機銃4挺の威力と「自動空戦フラップ」の効果を高く評価した。

笠井智一上飛曹(既出)によれば、『紫電』と『紫電改』には雲泥の差があり、『紫電改』の配備後の訓練搭乗機に『紫電』を指定されると、その搭乗員はあからさまにガッカリしたという。また笠井は、昭和20年(1945年)4月12日、喜界島上空の戦闘で米軍機と格闘戦を行った際に、「自動空戦フラップ」の絶大な効果を体感したと述べている。

海軍航空技術廠(空技廠)で『紫電改』テストパイロットを務めた山本重久少佐(既述)は、「『紫電改』は横旋回では『零戦』に劣り縦旋回では『零戦』に対し断然優位であり、『零戦』2機を相手にしても互角に戦える」とし、「加速性能・急降下性能を含めて総合的には『零戦』より優っていた」と評価している。また『紫電』では信頼性が低かった「自動空戦フラップ」だが『紫電改』では動作の確実性が増したとし、1945年2月17日における『紫電改』での実戦(既述)でもこの装置を有効に活用して米軍機を撃墜している。

但し、「自動空戦フラップ」が総じて高い評価を得ている一方で、この装置による速度低下を嫌って作動させずに空戦をした搭乗員が居たということも紹介しておかねばならない。先の坂井ではないが、特に『零戦』歴の長いベテランになるほど「自動空戦フラップ」を嫌う傾向があったとの伝聞もある。彼らにしてみれば、予想外のタイミングでフラップが勝手に作動して機体がふわっと浮き上がるという、搭乗員本人が意図しない乗機の挙動が操縦の妨げとなったとも伝わるのだ。

しかし「自動空戦フラップ」には緊急解除スイッチがあり、空戦中にフラップを作動させたくない場合にはこのスイッチを押して、その機能を解除することが可能であった。操縦桿にあるボタンはその為のもので、機銃を発射するにはスロットルレバーの手前にある握りを操作することで射撃を実行したとされる。

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