〈「試製紫電改操縦参考書」の記述〉
昭和20年1月の海軍航空本部編纂の「試製紫電改操縦参考書」には、地上運転時の作動試験項目として、フラップの動作確認と共にフラップ開度と連動して動作する腕比状態変更について、「操縦桿を操作し舵角変更の有無を視認」する様にとある。
また操縦上に必要な『紫電改』の特徴としては、「離着陸時の初期滑走に左回頭性(機首を左右に振る癖)があるが離陸は容易である」とし、この回頭性は「あらかじめ方向舵の修正タブを右に調整しておけば、方向舵での修正ができ容易に直進は可能」とされた。
そして「着陸は低速時の舵がよく効くので、横風の修正、方向舵の効果、ブレーキの効きと相まって直進が容易で、回される危険はきわめて少ない」とされている。
操縦性・安全性に関しては、「本機は高々度における射撃時の機のすわりを考えて設計されたので、方向安定は強かった」とされ、5201号機からは「垂直尾翼を13%減積、操縦性と安定性のバランスもよくなった」と云う。操舵比変更装置により昇降舵を変更するので、「3舵のききと重さは均衝がとれ、また小舵がきくので離着陸、空戦射撃が容易」であったともされる。
操縦者として必要な紫電改の知識としては、「操舵比変更の操作に関して操舵比変更装置は、離着艦用フラップ杷柄を“離陸”にすると、昇降舵の舵角が上げ33度/下げ10度(原文ママ。同項記載系統図:上げ33度/下げ30度)となり、フラップ杷柄を“空中(空戦)”にすると、昇降舵の舵角が上げ21度/下げ19度となり、空中戦闘のとき操縦桿を引きすぎて失速することを防ぐとともに舵の重さを適正にする」とされた。
この様に上記の「試製紫電改操縦参考書」は、昭和20年当時の運用現場における『紫電改』操縦の留意点が良く解かる貴重な資料である。
〈その外観について〉
外観に関しては既述の通り、『紫電』に比べて全長も長くなりスマートな体形となったが、当時の代表的な日本軍機、例えば『零戦』などと比較するとやや太めのフォルムをしていた。ちなみに、同じ発動機を搭載していた陸軍機『疾風』は全長が60cm弱長い為にか、『紫電改』よりも若干スッキリと見える。
余談だが、空冷エンジンで大出力を求めるとどうしても直径の大きなエンジン周り(エンジンそのものという意味ではないが、シリンダーやシリンダーヘッドの周辺に冷却フィンや関連した配管が多数装着されている為に全体として大型になりがちであり、特に星型エンジンの場合、エンジン周辺の直径あるいはその断面積が大きくなった)が必要となり、機体もそれに合わせて大型となった。
この点は、日本海軍の『雷電』や米軍の『P47サンダーボルト』・『F6F ヘルキャット』等も同様である。だが胴体径が大きいとターボチャージャーやインタークーラーなどの設置に有利(後述)でもあった。しかし『紫電改』や『疾風』に搭載された“誉”(陸軍では「ハ45」)発動機そのものは、空冷式の中では高出力・小排気量でその寸法もコンパクトなタイプである。またドイツの『フォッケウルフFw 190』は空冷式の名機であるが、その機体は比較的スマートな印象を持っている。だがやはり機首のエンジン部分はある程度縦長となっている。
これに対して液冷式エンジン搭載機は比較的胴体径(前面投影面積)が小さくて済むので、シャープなフォルムが多い。例えばドイツの『メッサーシュミットBf109』や英国の『スーパーマーリン スピットファイア』、そして米軍『P-51マスタング』(正確には『マスタング』は英国での呼名)などが代表例である。ちなみに空冷式と液冷式エンジンの違いは後述しておくので、詳しくはそこで確認願う。
また『紫電改』では、低翼化された主翼と胴体の接合部には大きなフィレット(fillet、翼と胴体の接合部に生ずる干渉抵抗を減らす為に、ファイバーグラスや金属板を加工して滑らかな二次曲面を成形したもの)が造られており、外見上の特徴の一つとなっている。尚、風防部分は、『紫電』と同じ日本軍機で一般的な涙滴型である。
本機は『紫電』と同様に、遠方から見ると米軍『F6F ヘルキャット』とよく似ており、味方の日本軍側が誤認した例も多い。その為に味方から誤射されることもあり、1945年(昭和20年)3月20日には戦艦『大和』が哨戒飛行中の『紫電改』(笠井智一搭乗機)を誤射した事故が発生している。
3月29日にも哨戒作戦中の戦闘407飛行隊が航行中の戦艦『大和』と随伴していた防空駆逐艦『冬月』から対空砲火を浴びた。味方識別バンクや上下運動をしたが砲撃が止むことはなかったとされ、度重なる誤射に源田司令が抗議するが「警戒航行隊形にある進路に無断侵入するものは敵味方問わず撃墜するのが当然」との返信が来たとされる・・・。
また陸軍機や地上の高射砲も『紫電改』を誤射することがあり、笠井は四式戦『疾風』4機に空戦を挑まれたが、交戦直前で陸軍機側が気付いて事無きを得たという。また同士討ちを避けるため、知覧町の陸軍基地に『零戦52型』や『紫電』、そして『紫電改』を持ち込んで陸軍側の兵員に実物を見せたこともあるが、昭和20年(1945年)8月12日にも友軍の対空砲火で3機が被弾、不時着している。
〈防弾性能〉
また、『零戦』等多くの海軍戦闘機の弱点であった防弾装備の欠如に関しては、(前編にて)前述の通り『紫電改』では、初期のタイプには間に合わなかったが主翼や胴体内に搭載された燃料槽は全て防弾仕様(外装式防漏タンク)となり、ゴムで被覆(操縦席下部の燃料槽は厚さ13mmのゴム張り、少し遅れて主翼内の燃料槽もゴム張りが施された)されている。風房正面は厚さ70mmの防弾ガラス(無機ガラスと強化無機ガラスを合成樹脂で3枚重ねとしたタイプ)とし、更に高性能な自動消火装置を装備した。
またこの自動消火装置には、3本の炭酸ガス・ボンベが搭載されており、各々胴体燃料槽用・右翼燃料槽用・左翼燃料槽用となっていた。熱電対発信器により発火した熱を検知して、摂氏800度になると自動で炭酸ガスが噴き出す仕組み。熱電対発信器は左右の翼に各9個、胴体前後燃料槽に各6個装着されたと云う。この装置は13mm機銃の焼夷炸裂弾を受けて発火してもわずか0.3秒程度で炭酸ガスを噴出し、消火率は95%と優秀だったとされる。更に胴体燃料槽用の炭酸ガス・ボンベは、手動操作により発動機とメタノール・タンクの消火用としても使用可能であった。
だが当初、操縦席後方の防弾板は計画のみで実際には未装備だった。ところが防弾に興味を示さなかった海軍でも、昭和18年以降からは順次、搭乗員座席後部に均質鋼鈑が取り付けられ、その後に一部の機には12mm厚の浸炭鋼鈑が設置されたとも云われる(軍令部員当時の源田中佐は、積極的に各海軍機に防弾装備の装着を推進したとされる)。但し、13mm厚を超える鋼鈑はほとんど使用されなかったとされていて、また笠井上飛曹の回顧によれば、座席後部には厚さ10cmくらいの木板しかなく、常に後方に不安を抱えていたと云う。
しかし重量増加を嫌う搭乗員は、せっかく防弾鋼鈑が装備されてもそれを敢えて取り外して出撃したとの伝聞もある位で、当時、一般的に防弾・防火装備については陸軍戦闘機がある程度の防御策を講じていたことと比較すると、「攻撃は最大の防御」との旧態依然とした考えがはびこっていた海軍では、設計者も用兵側も依然として防弾装備等を軽視する傾向にあったのは確かである。
〈艦載機として〉
艦載機運用をされた『紫電改』についての記述は極めて少ないが、山本重久少佐(既出)の空母『信濃』への着艦試験後の感想として、「『零戦』より視界良好で、赤と青の誘導灯も飛行甲板もよく見えた。パスに乗るのも左右の修正も容易である」、そして「スロットルを絞り、操縦桿を一杯に引くと、スーッと 尾部がさがって三点の姿勢になり、着艦フックがワイヤーを拘束した」、「これなら経験の浅いパイロットでも着艦できるであろう。『零戦』よりやさしいと思った」と記している。
この時、試製『紫電改二』(N1K3-A)に搭乗した山本は、始めにタッチアンドゴー(接艦テスト)を二度行った後にいよいよ本番の着艦を試みて、低空で誘導コースに入って着艦フックを降ろしながら、随伴する駆逐艦の上空でファイナルターン(第四旋回)を終わって最終アプローチをしながら着艦パスに入った。そして、その後の完璧な着艦に、乗艦の整備兵たちから盛大な拍手が沸き起こったと云う。