日本海軍最後の傑作戦闘機『紫電改』とは・・・後編 〈3JKI07〉

〈『疾風』・『F6Fヘルキャット』、『雷電』との比較〉
ここで当時のライバル機であった陸軍主力戦闘機『疾風』や米軍の艦上戦闘機『F6Fヘルキャット』、また同じ海軍の局地戦闘機『雷電』との比較を試みたい。

『紫電改』は、主力戦闘機として大量の生産計画が立てられたものの、その生産数は約420機 ±αに留まり、太平洋戦争後半の陸軍主力戦闘機となった所謂「大東亜決戦機」の四式戦『疾風』の生産数3,500機以上と比べると、その差は歴然としている。即ち生産数での貢献は、明らかに『疾風』に軍配が上がるのだ。

更に云えば、生産数だけではなく、その性能自体にも製造者(社)の技術力の優劣が影響した。『紫電改』量産機の一部には主翼の工作不良による揚力の不均衡から、当舵をしなければ直進飛行が困難(抵抗が増えて速力が落ちる)な機体すらあったとされ(「試製紫電改操縦参考書」の項にて関連の既述あり)、これらの要因が現実の戦場での両機の性能差を拡大させて評価に反映したと思われ、『紫電改』の側としては残念なハンディキャップとなった。

それでも『紫電改』が『疾風』よりも優れていたとの声が多いのも実情であることに鑑みて、汎用性を踏まえた場合は、『紫電改』が当時(大戦末期)の日本軍最強の戦闘機だったと推す意見が多数であろう。もちろんこれは、実戦に投入されずに試作機・試験機の製作で終わった類の「幻の名機」は除いての話であるし、異論があることも充分承知した上である。

四式戦『疾風』

一般的に『疾風』の最高速度は624km/hという数値が有名だが、試作4号機が高度6,120mにて631km/hを記録している。更に『疾風1型乙』(キ84-I乙)の試作機が、審査部でのテスト飛行において高度6,000mで660km/hの最高速度を計測したとされた。

戦後、米軍が鹵獲した飛行第11戦隊所属の1446号機でテスト飛行を実施したところ、高度6,096mにおいて時速687km/hを記録したとされるが、但しこれは、米国製のハイオク航空燃料と点火プラグを使用して武器・弾薬等を搭載しない状態でのテスト結果であった。また『疾風』の欠点は高々度性能が低いことで、6,000mを超えて更に高空に上がると最高速度はガクンと落ちたとされる。

『紫電改』の最高速度に関しては再度後述するが、『疾風』が『紫電改』にやや勝(まさ)っていたとの評価が優勢である。だが、両機の違いを端的に示した言葉としては、『疾風』の開発者である中島飛行機の近藤芳夫技師の「陸軍の『疾風』は一撃離脱の『キ44(鐘馗)』が原点。海軍の『紫電改』は空中格闘戦に拘っていた」というものがある。

両機は同じ“誉”発動機を搭載して重量もほぼ同等ではあったが、翼面積は『紫電改』(含む『紫電』)が23.5m²、『疾風』が21m²であり、『紫電改』の方が大きな翼を有していた。ある資料では、翼面荷重は『紫電改』が161.70kg/m²、『疾風』は185.24kg/m²である。ここでの翼面荷重とは、主翼にかかる機体重量を平方メートル(m²)単位の数値で示したもので、この数値が低いほど低速での旋回性能に優れ、高いほど速度性能は優れているが旋回能力は劣る、とされる。

そしてこれらの数値のみで判断をすれば、『紫電改』は『疾風』より空気抵抗が増えた分、その速度性能はやや劣り、代わりに揚力が大きくなって旋回性能が向上していたことになり、この点でも、もとより一撃離脱の『疾風』と、迎撃戦闘機でありながら格闘戦も辞さない『紫電改』の違いが鮮明であると考えられるのだ。がこれは、陸軍と海軍の伝統的な戦闘機に対する考え方の違いを反映しているとも云えよう。

初期量産型『F6F-3ヘルキャット』

ところで、『紫電改』の元搭乗員の述懐には「もっとも手強かったのは『F6Fヘルキャット』である」という意見が多数で、実戦では互角の勝負だったことが推測される。同時期、いま一つの米海軍主力戦闘機・戦闘爆撃機であった『F4Uコルセア』は運動性が低く、『F6F』に比べて御し易い相手であったとの評価が多い。

両機の速度性能はほぼ同じ(『紫電21型』594km/h、『F6F-3』605km/h)であり、武装(『紫電改』20mm機銃4挺、『F6F』12.7mm機銃6挺)については『紫電改』の方がやや優勢に思えるが、総合的にはそれほどの差はないとも言える。(双方とも武装はバージョンにより変動)

だが『F6F』でも、単機で『紫電改』と格闘戦になるとまず勝てないとされていた。もちろん搭乗員の経験と技量にもよるが、戦後の米軍によるライトフィールドでの模擬空中戦では、米軍のどの機体も『紫電改』に勝利出来なかったとのことである(後述)。

また航続距離が『零戦』と比べると短い点が『紫電改』の欠点とされたが、『F6F』とはほぼ同じ航続力を持っていたとされ、この点では双方引き分けの様相であった。

『疾風』との比較でも触れた通り一般に旋回性能の指標となるのは翼面荷重であり、またそこに加えて着陸速度の差も検討の材料となる。既述の様に『紫電改』の翼面荷重は161.70kg/m²であり、初期量産型『F6F-3』は177kg/m²で『紫電改』の方が小さい。着陸速度(『紫電21型』134km/h、『F6F-3』138km/h)は『紫電改』が4km/hほど遅いがそれ程の差はない。そこで特に翼面荷重の低さから、『F6F』と比べて『紫電改』の失速特性の良さや扱い易さが窺える。こうした数値特性に加えて「自動空戦フラップ」などの技術により、『F6F』に対して良好な空戦優位性を実現したと考えられている。

だが翼面荷重については、『紫電改』134kg/m² もしくは170kg/m²、『F6F』は167kg/m² または184kg/m²とする資料もあり、数値のバラつきが大きく単純な比較は難しい。また他の機種においてもその計測数値は多種多様であるが、完全に同一の条件・環境での比較テストでない限り致し方のないことであろう。   

尚、当時の日本海軍の戦闘機開発方針においては、この翼面荷重を低く抑えることが重要視されていた。その理由としては、空戦の際に低翼面荷重による旋回力を生かした水平方向の格闘能力を重視したことや、艦上戦闘機の場合、その空母での運用の制限で、80m程度以下の滑走距離で離陸する能力が求められたということが挙げられる(この条件が『烈風』開発頓挫の一因ともされる)。残念ながら、我が方においては空母用カタパルトが実用化出来なかった為に、こういった制約が艦載機には負わされた。また陸上機の運用においても、米軍などに比べ滑走路等の工事・整備能力が著しく劣っていた我軍では、短距離々陸が可能な機種が強く求められたともされる。

さて最後に同じ日本海軍の局地・迎撃戦闘機の『雷電』(J2M、名機『零戦』と同じ堀越技師の設計)との比較であるが、結局、海軍は『雷電』よりも優速であり新鋭連合軍戦闘機と互角以上の空戦性能を示す『紫電改』に軍配を上げた。既述の翼面荷重と着陸速度に着目しても、『雷電21型』は171kg/m²、166km/hであり、運動性能に関しては『紫電改』の圧勝となり、その汎用性と空戦能力を勘案して海軍現場審査部門の横空は、『雷電』の生産を中止して『紫電改』の生産に集中すべきだという報告書を海軍・航空本部に提出した。(翼面荷重について、同じ『雷電21型』でも175.35kg/m²とする資料もある)

海軍局地戦闘機『雷電』

しかし現実の戦闘現場では、両機ともに発動機(『雷電』は三菱重工製の“火星”を搭載)の不調が絶えず速度性能も芳しくはなかった。実際の平均的な最高速度はほぼ同じ程度(約600km/h弱くらい)であったとみられる。また武装も同等(基本は20mm機銃4挺)であったが、流石に上昇力は『雷電』が上回っていたとされる。更に『紫電改』も数々の欠陥を抱えてはいたが、着陸速度が異常に早い『雷電』は着陸時の安定性に大きな難があったとされ事故も多発、「殺人機」と酷評された。

尚、フィリピンで米軍が接収した『雷電21型』の初期生産機(3008号機)を用いたテスト飛行では、高度5,060 mでの最高速度は671 km/h、上昇力は高度6,100 mまで5分10秒というものであったが、これも米国の燃料・機材を使用した米国基準の数値である。

こうして戦争末期の海軍局地・迎撃戦闘機の中核は『紫電改』に託されることになったが、但し『B29』を邀撃する目的の高々度性能においては『雷電』の方が優れているとの判断(前・後述の様に、高々度性能を支える排気タービン式過給器〈ターボチャージャー〉やインタークーラー、及びそれらの配管などの設置には『雷電』の大きな胴体が有利との考え)もあり、『紫電改』の大量生産が決定された後も少数であるが製造が継続され、厚木基地の第302海軍航空隊(302空)などに配備されて『B29』迎撃に活躍(『雷電』搭乗員のエースでは赤松貞明中尉などが有名)した。

三菱が『雷電』開発に着手した当初は、短時間で高々度まで上昇可能な強力で小型のエンジンがなく、仕方なく双発機用の大直径の“火星”発動機を搭載せざるを得ず、その為にあの独特の太い胴体設計が採用されたのだが、この機種はもともと典型的な乙戦(迎撃用局地戦闘機・陸上機)であり、甲乙両戦に使える汎用性が特徴の『紫電改』とは単純に比較が可能なタイプではないだろう。そしてこの『雷電』もやはり発動機の不具合に終始付きまとわれた不遇な戦闘機であった・・・。

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