〈速度の評価〉
『紫電改』の最高速度に関しては、時速594kmという数値がよく知られているが、それは学徒動員や勤労奉仕の工員が作った粗悪品のエンジンでの、しかも運転制限下での数値であるとの意見が多い。まだ熟練工が作っていた“誉”エンジンの全力運転での試作機の段階では、時速630kmを記録したという資料が残されている。そして量産機においても発動機さえ快調であれば、高速で鳴らした『F4U』に対抗できる速度が出たと伝わる。
ところが『紫電改』とほぼ同時期に開発され、同じ発動機を搭載する中島飛行機の戦闘機『疾風』と『紫電改』の最高速度を仕様諸元(カタログスペック)上で比較すると、既述の通り若干『紫電改』の方が劣っているのだ。『紫電改』の試作時における最高速度は620.4km/hであった。だが、四式戦『疾風』の初期試作機の最高速度は624~640km/h、更に推力式単排気管に改造された後期の試作機は、初期試作機より10~15km/hほど速いとされたので、結果は『疾風』の方が優速であったと云うのである。
但し仕様諸元(カタログスペック)上、『紫電改』が『疾風』に比べて15~20km/hほど遅いのは、四式戦『疾風』の試験飛行時よりも『紫電改』の試験時にはより“誉”発動機の(前述の理由などで)工作精度が落ち、航空燃料や潤滑油なども“誉”に適した物が使用出来なくなっていた為に、更にエンジン出力が低下していたことが原因ではないかと推定する者もいる。また川西航空機の小型機製造能力の不足から、主翼の表面仕上げが荒くなっていたことも、空気抵抗の増大を招き速度低下に繋がったと考えられている。
また後述の米軍によるテスト飛行では、より好条件を得て両機とも更に高速度の実績を獲得していることを申し述べておく。つまり、同じことの繰り返しとなるが、性能を表す各種の数値は、その数値が得られたテストの時期や環境、使用した機体の型式や状態などにより大きく変動していることを理解した上で、あくまで参考として比較等には供したい。
〈『紫電改』不評の理由と原因〉
さて、多くの搭乗員経験者からも、また後世の航空技術の専門家からも全般的に評価の高い『紫電改』ではあるが、以下では逆に本来の高い性能を発揮出来なかった理由と原因について、詳しく考察してみたいと思う。
1. “誉”発動機の不調
『紫電改』のマイナス要因であり不評の理由には、先ず“誉”発動機が持つ根本的な問題が挙げられるのだ。なぜならば“誉”発動機は、軍部から要求された過大な性能水準を満たす為に、非常に複雑で繊細な構造になってしまったからである。つまりこのエンジンは、ある意味、大量生産を念頭に置いた工業製品ではなく、職人が一品一品手作りする工芸品の様なものとなっていた。その為、熟練工たちが丹念に作り上げて、微妙な調整を行うことでようやく完成する機械となっており、またそこで使われる部品等にも、非常に高い品質と工作精度が求められたのであった。
しかし戦況の悪化により、こうした製作や調整作業に熟知した熟練工員も次々に徴兵されていき、とても手工芸品の様な手作り発動機を組立てて調整する能力が生産現場には無くなり、量産された“誉”発動機の品質はみるみると落ちていったのである。
また、個々の工員のレベル以前に、この当時の日本の基礎工業力は欧米と比べてあまりにも低く、設計図通りに量産が出来ないといった事態も頻繁に発生しており、残念ながら生産された機械の其々の品質のバラつきも半端ではなく、本来の性能を発揮出来るものは少なかった。
結局“誉”発動機においても、技術の理想に走り過ぎて当時の我国の工業生産力や品質管理能力を考慮しなかったことで、一部には故障・不具合が相次いだ「欠陥エンジン」であるとの評価がなされている。但し、この点は何も“誉”に限ったことではなく、上記で述べた様な背景から大戦時の我国の高性能航空機エンジンのほぼ全てに当てはまった問題点とも言えたし、しかもその頃の日本においては、「品質管理」という概念すらなかったとされるのだ・・・。
さてここで“誉”発動機に触れたついでに、空冷式エンジンと液冷式エンジンの違いについて、簡単に触れておこう。
空冷式エンジンとは、エンジンが発した熱を外気の空気を直接に利用して冷却するエンジンのことである。外観上の特徴としては、シリンダーやシリンダーヘッド等に蛇腹状の冷却フィンが装着されている点が挙げられる。メリットとしては、構造がシンプルなので製造コストが安く、頑丈で軽量に仕上げ易い。保守・修繕などのメンテナンス作業も液冷式より簡単である。
デメリットは、液冷式に比べると冷却効率が低く、エンジンのメカノイズや騒音も大きい。また冷却フィンやその関連の配管等によって大型になりがちであることもマイナス点である。
太平洋戦争当時に採用された日本軍の空冷エンジンの多くは、冷却用流入空気にシリンダーを効率的にさらす事が可能な、“誉”などの星型エンジンであった。だがこの星型エンジンは、クランクシャフトを中心にして円周状にシリンダーを配列したもので機体の直径あるいは断面積がどうしても大きくなるという欠点があり、これは空気抵抗を増大させて速度性能を低下させる要因のひとつとなった。またエンジンの中心部に部品が集中している構造上、モーターカノン(レシプロ動力式の単発戦闘機用の航空機関砲)を搭載出来ず、機銃は機軸から離れた位置に設置する必要があった。
一方、液冷式エンジンは一般的には水冷式エンジンと同義だが、厳密には高空の低温で冷却水(クーラント液)が凍らないように、水にエチレングリコール等を混入して不凍液化したものをエンジン内部で循環させて熱を奪い排熱を行うものである。使用する冷却水が純粋な水ではないので慣習的に液冷式と称した。水は空気に比べて熱交換効率に優れているため空冷式に比べて冷却能力が高く、燃焼室の温度を効果的に下げることも出来るので「異常燃焼(ノッキング)」にも強いとされる。
また温度コントロールがし易く、多気筒でも均一に冷却が出来た。エンジン本体をコンパクトに設計可能だしエンジンのメカノイズや騒音も少ない。そして様々なエンジン配列(V型等)が可能である。しかもこの場合、前面投影面積が小さくなり空気抵抗が減少して、速度性能も向上する。
デメリットは、空冷式よりも必要とされる技術が格段に高度であり要求される部品の精度も高かくなくてはならない。また部品点数が増えたり構造が複雑になることで開発・製造コストが上がり、更に重量も増加した。そして空冷式エンジンに比べ軍用機の場合の問題点としては、被弾した時に冷却装置が被害を受けると致命傷になり易く、この点では空冷の方が有利だったと云えよう。
ところで、良質の航空燃料が手に入らなかった日本軍においては、“誉”の様なはハイチューンを施したエンジンがあってもオクタン価の低い航空燃料を使用したことで「異常燃焼(ノッキング)」が多発、結局は出力を上げることが出来なかった。
燃焼室自体の温度が高いと「異常爆発(デトネーション)」や「異常燃焼(ノッキング)」の心配があり、空冷式は冷却効率が悪くて燃焼室温度の上昇を押さえることが難しいが、液冷式はそれらのコントロールが容易だったので、パワーアップに対しても有利であることは間違いないのだ。
しかし、液冷式が必要とする技術水準には当時の我国のエンジン生産技術能力は程遠かったのである。特に精密加工技術の差は大きく、精密加工が可能な工作機械も限られていた。更に戦況が悪化してくると、各種資材や良質な燃料・潤滑油等の調達も困難となり、もともと丈夫な構造をしていてメンテナンスも容易な空冷式を採用するしか方法がなかったとも云える。
例えば、ドイツから技術供与を受けた発動機に「DB601」があったが、このエンジンはクランク軸の軸受けにも精巧なローラーベアリングが使用さており、これによりドイツ空軍戦闘機『Bf109』は僅かなオイルでも焼き付かず、暖機運転なしでも始動が出来て直ちに飛行可能などの特徴を発揮した。しかし我国でライセンス生産をした陸軍の三式戦『飛燕』に搭載された「ハ40」においては、このローラーベアリングの工作精度が極めて悪く、本来の「DB601」にはまったく及ばない性能となった。
結局、大戦中の我軍における液冷式エンジン採用の戦闘機は、「ハ40」・「ハ140(ハ40の改良型)」が搭載された『飛燕』と「アツタ」搭載の海軍の艦上爆撃機・夜間戦闘機『彗星』のわずか2種であり、その何れもが不具合の連続で後に空冷式エンジン「ハ112-II」(海軍では“金星”62型)に換装された。ちなみに、この時改造された『飛燕』首なし機が五式戦(キ100)の一部となる。