5. 資材不足
更に、船舶事情の悪化(制海権の喪失により多くの輸送船が沈められたこと)により、次第に国外の占領地からもたらされる金属や石油等の原材料の質・量がどんどんと落ちていった。この点が製造される発動機や機体の質の低下に拍車をかけたのだが、当然ながらこの事が全ての戦争経済に多大なる影響を及ぼしたのは間違いない。
6. 整備員の能力不足や欠員
そして航空燃料や潤滑油の不足とその品質の急激な低下だけではなく、戦争後半においては航空機の整備能力が追いつかないというメンテナンス上の問題により、各機とも所定の性能を安定して発揮することが出来なくなっていた。一部の精鋭整備員がいる部隊(下記参照)はともかくとして、一般的な教育を受けた整備兵しかいない部隊では整備不良や各種故障に対応することは次第に困難となっていき、稼働率はいよいよ低下の一途を辿っていくのだった。
但し、海軍整備部隊が手を焼いた“誉”と同じ「ハ45」発動機搭載の、四式戦『疾風』を主力機とした陸軍飛行第47戦隊の整備隊(整備隊長は、昭和19年9月までは松本公男大尉、以降、敗戦までが岡本作三少佐)の様に、エンジン技術に関する知識や経験の豊富な指揮官の指導で整備兵と搭乗員(不具合状況のフィードバックのみならず自らも整備に手を染めた)が協同で整備に当たる事で、終戦まで稼働率87%以上を維持した稀有な部隊も存在していた。
この第47戦隊で整備指揮班長であった刈谷正意中尉(既出)によれば、他の多くの飛行隊で保有機の稼働率が低かったのは「日本陸軍の整備教育が間違っていたから」であり、「『疾風』(もしくは“誉”発動機)のせいじゃない」と回想している。彼は、エンジン換装専門の班を通常修理のメンバーとは別に編成したり、壊れてから修理するのではなく定期的に部品を交換したり、上記の様に搭乗員(陸軍ではパイロットのことを「空中勤務者」と呼ぶ)を巻き込んで整備活動を繰り広げて、稼働率の劇的な向上を達成し故障機等の迅速な戦列復帰を果たした。
刈谷中尉の、抜群の整備技量を高く評価した陸軍は、彼を講師として四式戦を保有する全整備隊長を集めて、整備教育を実施したこともあった。その刈谷に飛行第244戦隊から整備支援の要請が入る。しかし第244戦隊の主力機は三式戦『飛燕』であり、これには流石の刈谷も困ってしまう。それは『飛燕』が専門外の液冷式エンジン搭載機であり、門外漢の自分では役に立てないだろうと考えたからだ。
そこで刈谷は、陸軍航空審査部で『飛燕』(キ61)を担当していた坂井雅夫少尉を第244戦隊に推薦して送り込んだが、それは坂井少尉が液冷指揮エンジンの熟達した専門家だったからだ。坂井が足を運び指導を始めると、その結果、飛行第244戦隊の戦時稼働率は何と80%にも向上したのだった。
また、液冷式発動機の「アツタ」を搭載した海軍艦上爆撃機・夜間戦闘機の『彗星』も稼働率の低下に悩まされた。だが、『彗星』を主力機とした芙蓉部隊(131空のこと、実質的に飛行長の美濃部正少佐が指揮したとされる)も第47戦隊と同様に高い稼働率の維持に成功している。扱いの難しい「アツタ」発動機を整備する為に、徳倉正志大尉(戦闘812飛行隊長で芙蓉部隊の先任飛行隊長であり副長格、戦後は建設会社を起業)と整備員を製造元の愛知航空機へ派遣、『彗星』の整備方法を徹底的に習熟させたことで稼動率を約80%にまで上昇させた。更にこの整備隊(整備科分隊長・佐藤大尉)は、廃棄される予定だった『彗星』の残骸の中から各種の部品を拾い集めて、新規に『彗星』を造り出すという荒業もみせている。
この様に現場の整備兵の優れた技量と献身的な努力で、高レベルの稼働率を維持した飛行隊も存在していたのである。
だが『紫電改』においては、点火プラグ・コード類といった電気部品の不良・不足に加えて、狭小な機内スペースに取り回した電気配線の被覆がエンジン熱で焼けて絶縁不良になるというようなトラブルもあり、この機は整備員泣かせであったと言われる。
稼働率低下の一例をあげると、1945年(昭和20年)7月の松山基地の偵察部隊では保有していた『紫電改』と同じ“誉”発動機を搭載した『彩雲』16機の内、作戦可能機はわずか2機に過ぎず、1機は故障、残りの13機の中で8機までがエンジンの調整・整備に追われるという有様であった。
また、ある部隊では油漏れが止まらず予備のパッキンを使い切ってしまったが、実はパッキンがすべて規格外であったという品質管理の不徹底を示すようなトラブルも起こっていた。ちなみに、大戦時の我が軍用機では悉くパッキン不良等による油漏れが起きており、帰投後にエンジンを整備しようとしたら油塗(まみ)れでベトベトになっていたとか、油漏れが原因で発生した黒煙で視界不良になりながらも、執拗に敵機を追尾して見事撃墜したといった逸話には事欠かない。
〈戦後もしくは米軍の評価〉
戦後に、ハイオクタン価の航空燃料と高品質の潤滑油や高熱値の良質な点火プラグを使用して『紫電改』を調査した米軍は、本機に高い評価を与えている。
昭和20年5月頃、『紫電改』の原型であった『紫電11型』を米軍が鹵獲し、性能テストが行われた。この時は熟練整備工による入念なメンテナンスは勿論のこと、米国製の点火プラグとオクタン価100の航空燃料を使用して、万全の態勢でテスト飛行が実施された。その結果は大変素晴らしく、最大速度は670km/hを記録したと伝えられる。
痛快な逸話としては、終戦後の昭和20年10月16日(15日~20日までの諸説あり)に接収機を大村基地から横須賀へ空輸する際に、米軍のハイオク燃料を用いて全速で飛ぶ志賀淑雄少佐(既述)と田中利男上飛曹、そして小野正盛上飛曹が操縦する『紫電改』3機は、実弾を装備した監視役の6機(10機とも)の高速で鳴らした『F4U』を完全に引き離して暫し置き去りにしたと云う。勿論、武装を撤去し銃弾等を未搭載の為に軽量ではあったが・・・。
但し、この話には諸説がある。空輸部隊の先頭にはC47が飛行しており、志賀少佐はその機に搭乗していた(つまり『紫電改』は別の人物が操縦)というものもあり、輸送中の『紫電改』が監視の『コルセア』を引き離した逸話も眉唾との意見もあるのだ。尚、輸送された『紫電改』は横須賀から海路で護衛空母『バーンズ』 (USS Barnes, CVE-20)に載せられて米国へと向かった。
ちなみにその後、米本土でこれら接収機のテスト飛行が行われた際には、最大速度689km/hという記録を残しており、『紫電改』との模擬空戦では何れの米軍機もこれに勝てなかったとされている。またドッグファイトにおいての高い機動性と速力、そして強力な火力や耐損傷性に関しても高く評価されたと云うが、川西航空機の設計課長だった『紫電改』の生みの親、菊原静男によれば、昭和26年に来日した米空軍将校団の中に米国で『紫電改』をテストしたことのある某中佐がおり、彼によれば「ライトフィールドで『紫電改』に乗って、米空軍の戦闘機と空戦演習をやってみた。どの米戦闘機も『紫電改』に勝てなかった。ともかくこの飛行機は、戦場ではうるさい存在であった」と述べたと伝わるのだが、もしかすると上記の高評価の出処(でどころ)はここら辺りであろうか・・・。
もっともこの結果は、使用機材の品質の良否だけではなく、日米で仕様諸元(カタログスペック)の求め方が異なっていたことに起因するとの意見が多い(既述)。日本軍機は武装等をフル装備して弾薬・燃料も満載とした状態、米軍機は武装・通信機などを取り外して弾薬・燃料は適量搭載した状態でスペックを調べていた為に、米軍調査の時点で多くの日本軍機が自国の仕様諸元(カタログスペック)以上の性能を発揮したという逸話は多いのだ。しかも最高速度の計測は、日本軍のそれは水平飛行で行い米軍では降下時に計ったともされる。
だが、スミソニアン博物館に展示されている『紫電改』の説明文に、「太平洋で使われた万能戦闘機のひとつである」とされながらも「『B29』に対する有効な邀撃機としては高々度性能が不十分であった」と書かれているように、局地戦闘機としては高々度性能が優れているとは言えなかったと評価されている。
大戦後半から末期にかけて、高度1万メートル以上を飛来する米軍の爆撃機『B29』の迎撃には、高々度用の過給器を装備していない従来の日本軍レシプロ戦闘機では、高度を維持してアプローチすることすらが困難であり、攻撃も1撃から2撃を行うのが精一杯であった。そこで優秀な高々度性能を有した迎撃機の誕生が望まれたが、そこには幾多の困難が待ち受けていた。
但し、現実には『B29』の戦略爆撃も効果があったのは全て高度5,000m以下のものだし、東京大空襲では全機が3,000m以下で爆撃任務を実行している。つまり『B29』も常に高々度のみを飛行している訳ではなく、爆撃実施に及んではある程度降下してくるので、そこを狙って迎撃を行うことも多かったとされる。
さて、しかしこの事(高々度性能が弱体なこと)は日本軍機に共通する欠点であり、基本的な工業生産技術の能力不足により、安定した強力な発動機の開発が困難を極めたことやなかなか良好な機械式過給器(スーパーチャージャー)やインタークーラー(中間冷却器)を得られなかったこと、並びに排気タービン式過給器(ターボチャージャー)を完全には実用化出来なかった点、そして更には高々度においての搭乗員の活動を保障する各種設備(与圧・暖房etc.)の開発が難しかったことなどが原因とされている。しかしこの点は、英国やドイツでも同様の困難に直面していた。