【江戸時代を学ぶ】 「寺子屋」の実態 第2回 〈25JKI00〉

4. 「寺子屋」教育の教育課程・進路について

さて、こうして「手習い」において基本中の基本である仮名文字や数字を学んだ初級の生徒たちは、次の学習段階では漢字の修得へと進んだ。漢字も単字から始まり、成語・熟語や成句へと移り、やがて短文から一般的な日用文章へと覚えるレベルが上がった。手本も、漢字や熟語を学んで短い文章に慣れてくると書簡の形式へと難易度が上がり、次には書簡(手紙)文そのものの作成の学習に移るのだった。

また扱う題材・教材としては、初め子供たちは基礎的な文字の習得の為に、多くの場合、師匠が手づから書いて与えた手本を臨書・書き写して学んだが、この初歩の学習が終わると文字を学ぶのと併せて「十干・十二支」や「方角」などを手本として暦などの知識を得たり、その後は例えば「名寄(なよせ)」タイプの『名頭』や『苗字尽くし』で人名・家名の成り立ちや種類を知り、『日用重宝萬文字尽』や『魚字尽』などの類書「~尽」で森羅万象・諸事諸物の形や名称を覚え、『町村名』・『町村尽』で住居の近隣を、各種の「~街道往来」(例:『東海道往来』・『中山道往来』等)で主な街道筋の街・町や村々の名称や地理を学んだ。更に『国尽(くにづくし)』などで全国的な地名等を学習し、江戸近郊の子供たちであれば『江戸方角』や『江戸往来』で江戸近郊の地名や施設・建物の名称を覚えた。

また諸証文類から各種法規類の文章、そして「往来物」を活用した専門分野・業種・業態の学習(後述)、最後には和漢の古典書籍を教材とした学習(後述)といった順序で教育段階は登っていったが、易しいものから難しいものへ、単字から短句・単文を経て長い文章へ、更には古の典籍へと、段階的、且つ体系的に教育を受けたのである。

そして、男子は男性の文体(漢字仮名交じり、但し漢籍関連は当然ながら漢字オンリー)、女子は女性の文体(漢字仮名交じり、但し仮名文字中心であり女性は原則的には漢字を使うことはなかった)で文筆を習い、概ね教程が一通り終わる。

※「十干・十二支(じっかん・じゅうにし)」とは、「十干」の“干”は木の幹が語源であり、「十二支」の“支”は幹の枝を表している。「十干」は各漢字を五行(木・火・土・金・水)に当てはめて、更に各々を陰陽を割り当てた、甲、乙、丙、丁、戊、己、庚、辛、壬、癸がある。また「十二支」については、古代中国で天空の方角を12種に分けて、其々の方角に動物の名をつけたという説が有力。この二つを併せて「干支(かんし、えと)」といい、暦の表示などに用いられる。

※「名寄(なよせ)」とは、ある特定のテーマに基づいて単漢字・熟語・成語を順次並べたもので、人名や官職名、動植物から諸品など、様々なものが記載されている書物のこと。

※『名頭(ながしら)』(『名頭字』とも)とは、源・平・藤(とう)・橘(きつ)などの、姓氏の頭の字を列記したもので、江戸時代に「寺子屋」などで漢字の書き方を教えるのに用いられた。

※証文類等についてのより具体的な例としては、商人の子供であれば請取文・送り文・証文・店請状等々に関する理解と作成方法を学んだとされる。各種法規類に関しては江戸時代は文書至上主義の社会であった事から、庶民にとっても諸法度(例えば『御成敗式目』、『武家新式目』、『五人組帳前書』など)や御触書、御高札、種々の上申書などに関する知識も重要であった。

 

5. 「寺子屋」の代表的な教材、「往来物」について

『庭訓往来』

「寺子屋」における実学の分野としては、社会の中で生きていく為の基本的な知識や慣習を身に着ける為に、『庭訓往来(ていきんおうらい)』(後述)などの「往来物」を教材として用いた学習が重要視された。この「往来物」は「手習い」の手本としても用いられたが、また同時に読む教科書でもあった。

我国では、古くから中国の著名な古典的書籍、すなわち史書や逸話・寓話集、儒学等の思想・哲学書並びに仏教の教典、そして詩文集等の文芸書などを教科書として使用し、また同じく我国の同様な書物も教科書として用いられた。

だが「往来物」はこれらの典籍とは違い、当初から教材であることを目的として作られた純粋の教科書である。そして「往来物」はその名の通り、最初は往復の手紙文などを集めた書簡集(もしくは、あえてその体をなした形)であったが、後に様々な内容がその中に盛り込まれ、更に学習の目的別に分化・独立して各種の教材としての「往来物」が成立したのである。

この「往来物」は、平安時代後期から明治時代最初期にかけて利用された初等教育用の教科書の総称であり、起源は平安末期の貴族・僧侶の手習本『明衡往来(めいこうおうらい)』にまで遡ることが出来るが、「寺子屋」で使われたものには南北朝時代末期から室町時代前期に成立したとされる、世の中の種々の一般常識を内容とする『庭訓往来』が有名だ。

※最近の研究では、『明衡往来(明衡消息・雲州往来)』よりも時代が遡るものとして『高山寺古往来』(平安時代前期~中期に成立)の存在が注目されているが、この書物には普及の足跡が見当たらないことなどから、「往来物」とすることに多くの異論もある。

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