大坂の陣に参加した豊臣方の名だたる武将に関しては、まだまだ大物が何名かは残っているが、過去数回に引き続き今回も少しばかり小粒の将を紹介することにした。
当時、新興の羽柴・豊臣家の直臣に多かった(瓦解した室町幕府の家来たちの“再就職組”である)もと幕臣たちであるが、今回の登場人物である竹田永翁と槇島重利も共に幕臣で、ふたりは顔なじみの仲であっただろうし、同じ幕臣であった細川家中に因縁の深い武将でもあるのだった。
更に細川家繋がりとでも言おうか、正真正銘の本家・嫡流筋である細川家(細川京兆家)の当主・細川元勝についても触れておこう。この人は名門の出身故に陣後には許されているが、大坂の陣当時、大坂城に籠城した豊臣家の家臣であったことは間違いない…。
尚、その他に細川家(細川奥州家)からは忠興の次男・興秋や家臣の米田是季が豊臣方に与して大坂城に入城していたが、既に紹介済なので今回は省くものとする。
※細川興秋や米田是季に関して…はこちらから
それでは、トップ・バッターは竹田永翁から。
竹田永翁
竹田永翁(たけだ えいおう)の、その号は栄翁とも記されるが、永禄10年(1567年)に生まれて慶長20年(1615年)の大坂夏の陣にて討死したとされる、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての豊臣家々臣の武将である。
永翁の出自については複数の説があるが、先ず有力な説としては、彼は通称を藤四郎といい、竹田織部正定雄(梅松軒)の三男として生まれたというものがある。母親は沼田上野介光長の娘であり、彼女は細川家重臣の松井康之(細川藤孝の家臣)の妻であった自得院の姉であった。また永翁の兄には松井長助定勝(松井家々臣竹田家の始祖)や竹田源助長勝、弟に竹田半左衛門(肥後細川家々臣竹田家の始祖)がいる。
この竹田家はもともと(室町幕府足利家の臣下であった)幕臣・武田氏の同族(武田冠者源義清が家祖とも)で、第15代目当主の武田大膳太夫信時の二男であった武田侍従定栄(瑞竹軒)が足利義晴に仕えて山城国竹田郷を領していたが、その嫡子の竹田織部正定雄の代に“永禄の変”(永禄8年/1565年、三好義継や三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)と松永久通らによって室町幕府13代将軍であった足利義輝らが京都二条御所にて襲撃され、殺害された事件)が起こり、主人を失った定雄は梅松軒と号して羽柴秀吉に仕え始めたとされる。
ちなみに梅松軒の嫡子である竹田藤松(永翁の長兄)は、母親の関係で丹後久美の城で松井康之に養育されて成長し、やがて松井家一門として松井定勝と名乗り、その子孫が肥後細川家の有力な家臣として存続した。一方で、梅松軒は家督を二男の竹田源助長勝に継がせたとされる。ちなみに、永翁と共に梅松軒が大坂城落城の際に山里曲輪で自害したとの説と、それは次兄の源助長勝であるとの説がある。更に永翁は長兄・定勝の長男であった権右衛門長雄を養子とした(異説あり)が、この長雄は後に鍋島家に仕えて、この子孫も肥前鍋島家の家臣として継続したとされる。
尚、永翁が梅松軒の子であれば、永翁は細川忠興の従兄弟違い(母の従兄弟が忠興)にあたり、細川家の重臣(筆頭家老)・松井佐渡守康之の義理の甥(母の妹が康之の妻)にもあたる血筋であり、もともと同じ上級幕臣の家であることから当然とも云えるが、そもそも竹田家自体が細川家と繋がりが深い。
また参考までだが、細川忠興の父・藤孝は細川和泉上守護家(細川刑部家)の家督を継いだが、その子の忠興は細川輝経の養子となり庶流の一つである細川奥州家の系譜に連なった為に、肥後細川藩は細川奥州家を受け継いだ形となっている。
(旧幕臣説ではない)他説には、永翁は竹田高正の四男として誕生し、母親は山村修理太夫の娘とされる。その幼名は乙若丸で通称は弥十郎といい、諱は高治である。そして彼は遠江堀川城(遠江国引佐郡気賀)の城将で官職は左衛門督を称した。
彼の父親の竹田高正は、幼名を龍若丸といい、通称は重郎または十郎であり、官位は従五位下で官職は蔵人・左兵衛督(官位に関しては極めて信憑性は低く、官職は自称か衛門成などで左兵衛もしくは左衛門を名乗ったと考えられる)であったが、この人物は信濃国の生まれで村上義清の姉の子という説もある。 そして高正は、木曽谷第19代の当主・木曽義昌の娘を娶り、天文2年(1535年)に次男・龍千代(雅楽之介)、弘治2年(1556年)に三男・竹若丸(酒造之介)を儲けた。
その後、竹田高正は武田信玄の信濃侵攻から逃れて天文年間には今川氏に従属し、弘治元年より永禄元年(1555年~1558年)に至り、遠江国引佐郡細江気賀の荒地六百余町を開墾してこの地の土豪として定着した。また同時に、信濃木曽氏の臣で姻戚、山村一族の山村修理太夫良等や信濃守護小笠原氏に臣従した尾藤一族の尾藤主膳高明(豊臣秀吉の家臣、尾藤知宣・宇多頼忠兄弟の叔父)など、多くの亡命信濃衆もこの開墾活動に参加したとの話も残っている。
また一説には、竹田高正の来歴に関しては別の説があり、それは、彼は元来は朝廷に仕えていたのだが朝廷内での権力争いや内紛を嫌い職を辞して諸国を遍歴したが、信濃国の木曽氏のもとに身を寄せていた時に駿河の今川氏の招きで蹴鞠を教授したことを賞されて、気賀に領地を拝領したと伝わるものだ。
高正は気賀の地で山村修理の娘を娶り、その後、乙若丸(永翁)が生まれたが、乙若丸は地元気賀の有力地侍・新田友作(後に名を喜斎に改める、旧名は名倉伊茂でもと名倉の清水城主)の養子となったともいう。また新田友作は後述の堀川城の実質的な城主となる人物だが、一時期は「井伊谷七人衆」として井伊家の被官であったとの説もある。
さて、永禄3年(1560年)の『桶狭間の戦い』で今川義元が討死した後、やがて徳川家康の遠江攻略が始まるが、この動きに対して永禄11年(1568年)には気賀地区の地侍(新田友作・竹田高正・山村修理太夫・尾藤主膳など)や領民は堀川城を築城し対抗した。
だが永禄12年(1569年)3月27日に遂に堀川城は落城、竹田高正・竹田雅楽介高直(高正の次男、当時34歳)・竹田酒造介高道(高正の三男、当時13歳)は討死。山村修理太夫は逃亡後、自害。尾藤主膳は堀江城へ逃亡後に自害。この戦いで女子供を含め1,700人余りが斬首・惨殺され同地区住民の半分が死亡したと云う(『気賀一揆』)。そして当時、3歳だった永翁(高治)は、信濃国木曽にいる高正の嫡男で兄にあたる竹田稔右衛門西光のもとへと金子五郎八の弟・庄兵衛に連れられて一旦逃れたが、9年間ほどを経て兄の西光と共に気賀への帰還を果たした。但し、長男の竹田西光も堀川城落城の折に37歳にて討死との記録もある様だ。
ちなみに現在、静岡県浜松市北区細江町気賀の旧家である竹田家の敷地内裏山に、“五輪様”と呼ばれる首塚があり、そこには竹田高正・竹田高直・竹田高道、斉藤為吉や尾藤主膳などの諸将が葬られているそうだが、ちなみに本年(2017年)のNHK大河ドラマ『おんな城主 直虎』において、この気賀という土地が幾度となく登場する。また同時期に気賀地区で活動していた土豪で豪商の瀬戸方久(前述の大河ドラマに頻繁に登場)が堀川城の管理を任されていたとの説もあるが、同城の城主とは無関係との説の方が有力である。更に瀬戸方久=新田友作(喜斎)同一人物説もあって、いささかややこしい。大河ドラマでは、第26話「誰がために城はある」において今川方の大沢基胤の家臣である中安兵部定安と共に山村修理・尾藤主膳・竹田高正の3名が気賀へ進駐してくる場面があるが、その出自や背景は詳しくは説明されていない。
尚、永翁の出自に関しては、上記の他に異説として大政所などを治療した医師の竹田定加の子とも云われるが、こちらの内容については詳しくは解かっていない。
《広告》