ここ最近、世界の檜舞台で活躍する選手が増えて大注目のスポーツが「卓球」。リオ五輪でも先日の世界卓球選手権(ドイツ大会)でも男女ともにメダルを複数獲得したが、しかし昔、日本が今以上に強かった時代があったのを読者の皆さんはご存知だろうか?
筆者は中学から高校にかけての一時期、部活動で卓球部に所属していたが、その頃(1970年代半ば)までは国際的にみても未だ日本は充分に世界をリードする強国の一角であったと思う。
そしてその当時、近頃流行りの「チキータ」にほぼ似た技や「しゃがみ込みサーブ」は既にあったのだった…。
日本卓球界の全盛期
1952年の第19回世界卓球選手権ボンベイ大会では、日本はこの大会初出場ながら男子シングルス・男子ダブルス・女子団体・女子ダブルスの4種目で優勝を遂げて、この後の黄金時代の切っ掛けを得た。
それまで世界の頂点に君臨していた欧州勢に対し、当時の日本選手はボールスピードが速くなる厚めのスポンジを貼ったラバー等の新たな用具を用いて、攻撃的でスピードのあるプレースタイルで挑戦し、驚異的な成果を挙げたのだった。
この後、1950年代の世界卓球選手権において日本が優勝した数は(男女・シングルス・ダブルス・団体等合わせて)24回もあり、佐藤博治、荻村伊智朗、田中利明、大川とみ、江口冨士枝、松崎キミ代といった世界チャンピオンを輩出した。特に男子団体では5連勝を達成している。
即ち1950年代は、日本卓球が世界を席巻していた黄金時代だったのだ。だが1960年代になると中国人選手が急速に台頭、欧州勢の復権も始まり韓国人選手等も上位に食い込む様になる。だが1970年代頃までは男女ともに日本選手の世界チャンピオンが何人も生まれていたが、やがて1979年を最後に日本人の世界チャンピオンは途絶えた。
こうして1970年代迄は日本は世界のトップクラスであったが、1980年代以降はシェークハンドの大幅な普及やプレイスタイルの変更などに追随出来ずに停滞期が訪れる。ジュニア選手育成がおろそかにされた結果、世代交代が失敗した事も大きかったとされる。
しかし、2000年代以降は女子が徐々に実力を発揮、世界卓球選手権団体で3大会連続銅メダルを獲得し、2014年と2016年には同大会団体で銀メダル、2012年ロンドン五輪の団体で銀メダル、2016年リオ五輪では銅メダルを獲得した。男子においても、2008年以降の世界卓球選手権団体で4大会連続で銅メダルを獲得、2016年の世界卓球選手権団体では銀メダル、リオ五輪では男子団体で銀メダル、男子シングルスと女子団体で銅メダルを獲得した。
今年(2017年)になり、アジア卓球選手権で平野美宇選手が3人の強豪中国選手を破って優勝、冒頭に記したデュッセルドルフで行われた世界卓球選手権での男女選手の大活躍(混合ダブルスで優勝、男子ダブルスが銀メダルと銅メダル、女子もシングルスとダブルスで銅メダルを獲得)など、復調の兆しが顕著である。
卓球ルールの変遷
筆者が部活動で卓球を競技していた頃は、21点制でありサービスも5本ずつの交代制だったが、1ゲーム21点制の長丁場だとランキング(実力)上位者が必ず優位で番狂わせは起き難い。またラバーも自由に貼れたので、特にシェークの場合、ラケットの裏と表に同色の異質ラバーを貼り、くるくるとラケットを廻しながら(しかも球出しの時、ボールを隠して)サーブを打ち出してくる選手がいて、ボールの回転や質を見極めるのが難しかった。
現在のルールでは、表面と裏面とで異なる色のラバーを貼らなければならないし、ラバーを貼った面の反対側の面には異なる色のラバーを貼るか、異なる色に着色しなければならないとされている。
1989年以降にはボールや台の色に関するルールも改正されて、カラーボール(オレンジ色)が公式大会でも採用され、卓球台の塗色も暗緑色から明るいイメージの色味(青など)が多く使われるようになった。また選手のユニフォームも、単一色に限らず何色を使用しても良い事となりカラフルに変化、「暗い」(タレントのタモリのテレビ番組内での発言が大きく影響したとの逸話がある)と言われた卓球のイメージアップが図られたが、最近の国際大会ではライトブルーの卓球台に白色のボールの組み合わせが一般的になっている。
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