【漢詩の愉しみ】 春暁 孟浩然 〈3817JKI11〉

前回の【漢詩の愉しみ】『江南春(江南春絶句)』に引き続き、孟浩然の『春暁』に関する記事をお届けします。時期的にも5月後半に入り、まさしく晩春の今が1年を通して一番、眠くなる時期でしょう‥‥。

またこの漢詩は、以前は必ずといっていいほど中・高校の漢文の教科書に掲載されていたもので、年配者の方には覚えている人も多いかと思われる、大変、ポピュラーな漢詩ですよね。

 

それでは、孟浩然の五言絶句『春暁をご紹介します。

春眠不覚暁 (春眠暁を覚えず)
処処聞啼鳥 (処処啼鳥を聞く)
夜来風雨声 (夜来風雨の声)
花落知多少 (花落つること 知る多少ぞ)

ちなみに、第4句の「知多少」の部分の読みは何通りかありますが、1. 知る多少、2. 知んぬ多少ぞ、3. 知りぬ多少ぞ、4. 知らず多少ぞ、といったところが知られていますが、意味はすべて同じだそうです。

 

通訳と解説

代表的な通訳を3種類ほど紹介しておきます。細かいところの表現が異なっていますが、大意は同じですね。

春の眠りは心地がよく、夜が明けるのも気づかないほどです。ふと目覚めると、あちらこちらから鳥の囀(さえず)りが聞こえてきます。そう云えば、昨夜(ゆうべ)は風や雨の音がしていましたが、咲きほこっていた庭の花は、どれほど散ったことでしょうか。

春の眠りはあまりにも快適で、うっかり寝過ごして夜が明けたのも気がつかない。床の中でうとうとしていると庭のあちこちから鳥たちが啼くのが聞こえてくる。さて昨夜は一晩中、雨まじりの風が激しく吹いていたが、咲きほこっていた花々はどのくらい散ってしまっだろうか。

春の朝を心地よく寝過ごしたが、鳥たちの囀りに起こされた。そういえば昨夜は雨に風も混じって激しい音がしていたが、綺麗に咲き誇っていた花はどれほど落ちたのだろう。

 

この『春暁』は、起句と承句で春ののどかな雰囲気を表し、転句で一転して春の嵐を描写して変化を用意し、結句でその二つの風景を巧みに融合させて雨上がりの晴れやかな情景を浮かび上がらせており、典型的な五言絶句の起承転結の巧みさを盛り込んだ佳品となっています。

また各々の語句の解説については、「春眠」とは、春の夜の心地よい眠りのことです。通説では「暁」は夜明けの意。「不覚」は、気付かないこと。「不覺曉」で、日の出の様子を覚えていない状態を表しますが、寝坊をすることともとれます。処処」は、ところどころ、あちらこちらで。ここでの「聞」は、自然に聞こえてくる様子。これに対し「聴」は、意識的に聴く様。「啼鳥」とは、囀(さえず)る鳥や鳥の鳴き声のこと。「夜来」は昨夜のことで、「来」は語調を整える助字で意味は特にありません

さてこの漢詩に登場する鳥は、夜明けを告げる「鶏」ではなく、ここでは作者はゆっくりと寝坊してその声を聞いている訳ですから、明るくなる頃に鳴き始める「雀」等の小鳥などの可能性が高いでしょう。また「雀」であれば年間を通して活動していますが、特に春から夏にかけては子育ての時期でもあり、「チュンチュン」と活発に鳴くものとされています。

また夜の間じゅうずっと雨風の音が聞こえていたとすると、熟睡出来ずに昨夜は眠れなかったことになります。ひょっとしたら睡眠不足で、夜明けが近くなってからようやく眠りについたのかも知れませんね。但し、第2句で鳥の鳴き声が聞こえる時点では既に雨は上がっていると思われますが‥‥。

ところで、雨風によって散らされる「花」とはどんな花でしょうか。当時の中国の風景を想い描くと、これは「梅」とか「桃」で、季節的には「桃」の方が相応しいでしょうが、筆者はあまり植物に詳しくはないので、まったくの思い違いかも知れません。しかし相当に激しい風雨だったとしてもその多くが散ったとすれば、花の季節も終わりかけであったと考えられ、そこから季節は春でも遅い晩春ということになるのでしょう。

最後に既に読者の皆さんはお気付きと思いますが、この漢詩の中の出来事、例えば雨風の音も鳥の鳴き声も、皆、聴覚に頼って得た情報で、作者は寝床の中から外には出ていないのです。だから視覚から得た情報はなく、(実際に見れば解るんですが)庭の花の状態も推量に止まっているのです。

尚、押韻にはルールがあり、五言絶句では原則として偶数句末(第2句と第4句)に同じ響きの言葉が置かれます。但しこの『春暁』は例外的に、第1句、第2句そして起句末の第4句で上声17篠韻の韻(「暁(gyō)」・「鳥(chō)」・「少(shō)」)を踏んでいます。

 

ここでまとめとして、この漢詩についての(我国における)代表的な解釈を紹介すると、

のどかな春の一日の朝、暖かく降り注ぐ日の光や昨夜の風雨で庭に散った花々などの様子を思い浮かべながら、往く春を惜しむ情感を巧みに詠んだ漢詩とされています。

また併せて、こんな朝寝坊が出来るほどの自由な生活は役所勤めの多忙な役人にはあり得ない、という事を表していて、この詩は作者が科挙に落第した後の隠棲閑居の頃の作だろうと云われているのですが、この点に関しては後程、詳しく掘り下げたいと思います。

いずれにしても風景描写がとても巧みで、何気無い日常の中の自然・季節の移ろいを捉えた秀作だということには変わりありません。

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