【江戸時代を学ぶ】 幕府直轄地(天領)の行政官、代官と郡代 について 〈25JKI00〉

時代劇などによく登場する「代官」という役目、何故か創作の世界では概ね悪役として描かれていることが多い‥‥。名奉行!! を主人公とした作品は数あれど、名代官!? が主役の時代劇などは全くと言っていいほどに見掛けたことがない。

それ故にか、筆者の周囲ではこの代官に関しては多くの人が謂れのない先入観にもとづいた(すなわち無能で悪徳・不正な役人という)曖昧なイメージしか有していない様だが、その見解は必ずしも正しい歴史的な知識に基づくものではないだろう。ましてや代官の上位職である「郡代」という役職に関しては、代官以上によく知らないという人が大勢を占めていよう。

そこで今回の【江戸時代を学ぶ】では、直轄地(天領)を維持・管理して江戸幕府の民政と財政基盤を支えた代官、並びに郡代という役職について解説していこうと思う。果たして、その現実の姿はどの様なものだったのだろうか‥‥。

 

代官

代官とは、本来は主人の代理をする職務の総称であるが、我国中世では広く領地の所有者の代理人を意味した。また荘園においては預所や請所が本来の荘園領主の代官となり、当該荘園の年貢の徴集などを務めた。

※預所(あずかりどころ)とは、中世の荘園において本来の領主に代わって下司 (げし)や公文(くもん)などの部下を指揮して、荘園の代行管理にあたった職のこと。

請所(うけしょ)とは、中世の荘園において、守護・守護代や地頭・地頭代、有力な豪農・名主などが本来の荘園領主に対して一定額の年貢納入を請け負う代わりに、その荘園の支配に関する一切の権限を委任されたこと。

しかし、安土桃山時代には実際に所領現地で年貢の徴収などにあたる在地の管理人が代官と呼ばれ、江戸時代に入ると、江戸幕府は全国に散在するその直轄地(天領)の内、遠国奉行の支配地と大名預所を除く領地を数万石単位で代官に支配させて領土経営に当たらせた。

※大名預所(あずかりどころ)とは、江戸幕府の直轄地(天領)の内で近接した大名や旗本もしくは遠国奉行に管理を委託して、年貢米の徴収などを代行してもらった領地のことで、預地(あずかりち)とも言う。享保14年(1729年)には奥羽・北陸地方の譜代大名を中心に約60万石、佐渡奉行などの遠国奉行への委任分が13万石余に及び、合計で天領の総石高の約6分の1を占めていた。

 

江戸時代の幕府代官の身分は旗本としては下層に属するが、身分の割には支配地域は広大でその民政に関する権限も大きかった。しかし代官所に勤務する人員数は限られていた為、代官以下の仕事は非常に多忙であり、支配地内に陣屋を設けて行政活動に従事した。

その職務内容は、地方(じかた)の業務として、課税(年貢の徴収)、河川や道路・橋梁等の普請、管轄下の戸籍(宗門人別帳)の作成や管理、新田の開発、災害時(洪水・地震)及び凶作時の飢饉の対応などがあった。また貸付金の運用などの金融業務から得た利益の一部は、代官所の運営費用に充てられたとされる。

また公事方(くじかた)の業務としては、治安維持(警察活動)や裁判・罪人の処罰などがあったが、但し裁量権は小さく、軽犯罪以外は口書(調書)を添えて幕府の上級組織の決裁を仰いだと伝わる。

 

彼ら代官の身分・格式は役高150俵、焼火之間(たきびのま)詰で、一部に布衣の代官もいたが、大部分は布衣以下の平士であった。(時期によって異なるが)江戸時代中後期には全国で40名前後が任命され、支配地の石高は5~10万石とされた。

※布衣(ほい)とは、江戸幕府の制定した服制のひとつで、幕府の典礼・儀式に下級旗本の者が着用する狩衣の一種であった。布衣の着用を認められた者は江戸幕府内では六位叙位の扱いとなり、布衣を許されていない旗本は平士(へいし)とよばれた。

※代官にも布衣クラスで躑躅之間(つつじのま)詰の者もおり、役高も駿府御蔵掛は300俵、甲府御倉掛は200俵、馬喰町御用屋敷詰3人の内の1人は300俵、2人は20人扶持、支配所関東10万石預の者は300俵であった。また『嘉永武鑑』による代官は36名で、慶応3年(1867年)の調査では41名であった。

また江戸時代の前期には代官職を世襲する場合(後述の伊奈家など)もあり、伊豆韮山の江川家・京都の小堀家・長崎の高木家の様に、この職を代々世襲して同じ管轄地域を担当する代官となった家系があった。

しかし代官(含む郡代)の職は、寛永19年(1642年)以降、基本的には勘定奉行の支配下となり、勘定所配下の他の役職などから代官職に転任しては、勘定所系官吏の昇進の道筋として数年おきに各地の代官職を転々とする者も数多くなり、勘定奉行支配の官吏が江戸から派遣される様になる。但し、長崎奉行支配の長崎代官の様に、同地の遠国奉行による支配を受ける例外的な代官もあった。

※伊豆韮山の江川家とは、伊豆国田方郡韮山(静岡県伊豆の国市韮山町)を本拠とした江戸幕府の代官を代々世襲した家系である。また江川太郎左衛門とは江川家の代々の当主の通称であるが、中でも第36代の江川英龍(江戸時代後期、洋学の導入に貢献し民政や海防の整備に実績を挙げた)が著名で、嘉永6年(1853年)のペリー来航直後には勘定吟味役格に登用された。また代官としてその最大の支配地は、相模国・伊豆国・駿河国・甲斐国・武蔵国内の天領26万石とされた。

※京都代官の小堀(仁右衛門)家は、延宝8年(1680年)に就任した小堀正憲以後、代官職を世襲した。同家の知行高は600石・役料1,000俵・躑躅間詰の格式と定められていた。二条城や朝廷の職務も掌ったことから属僚が多く、常時20~30名、最も多い時期には60名余が属していた。

※長崎代官を世襲した高木家は、元文4年(1739年)に長崎町年寄の高木作右衛門忠与(忠與)が、長崎の近郊の幕府領の代官に任命されて以降、代々にわたり長崎代官の職を継いだ家系である。明和元年(1764年)に米方・寺社方事務が長崎代官に属し、文化2年(1805年)には抜荷取締も兼ねた。第13代目の作右衛門忠知の代には長崎鉄砲方を兼任し、御目見以上末席15人扶持となり米100俵と受用銀45貫を受けた。

代官の配下には手付(てつき)や手代(てだい)、書役などの部下が置かれ、代官を補佐し多くの業務等を分担していた。またその支配地内には陣屋が設置されていたが、関東地区、特に江戸近郊地域を担当する代官の場合は江戸市中に代官所があることも多く、代官自身は江戸定府で実際の支配は手付・手代たちが分担、代官は検地や検見、支配地の巡察、そして重大事件の発生時にのみ現地に赴いて指揮に当たった。

尚、手付の身分は御家人で、30俵2人扶持。手代は、一般の有力農民や町人から登用されて苗字・帯刀が許され、20両5人扶持が給された。

諸藩にも大名家臣の蔵米知行化が進行するにつれて民政担当の役人である代官が置かれ、年貢徴収を主要な任務とした。藩によって多少の違いはあるが、武士としての格式は高くなく、概ね10石から50石程度の軽輩の徒士(下級藩士)が任じられたと云う。また手代と同様に、特に藩庁から役人を派遣することなく、当該地の有力富農(名主)などを取り立てて名字帯刀を許して代官に任命することも多かったとされる。

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