【江戸時代を学ぶ】 幕府直轄地(天領)の行政官、代官と郡代 について 〈25JKI00〉

ところで、この幕府の直轄地(天領)で何か事件が起こる、あるいは他領から犯罪者が天領に逃げ込んで来た場合、本来ならば代官所が取り締まる形となる。ところが現実には、代官たちはさほど積極的にはこれらの犯罪者たちの逮捕・捕縛の為の行動には出なかったとされる。

そしてその理由の第一は、この当時の代官の優先業務が徴税であり、年貢を滞りなく納めさせることが主な任務であったことに関係している。もちろん治安維持の権限や警察権も有してはいたが、現実には犯罪者を検挙するよりも収税の成果が大事とされ、更に広大な管轄地域をくまなく取り締まる警察力(組織・人員)も持たなかった。

 

さて代表的な初期の代官には、関東地方を中心とした地方巧者の代官頭(有力な代官)として伊奈忠次、大久保長安、彦坂元正、長谷川長綱らがいた。彼らは独自のノウハウにより検地・灌漑・治水、交通路や鉱山の整備・開発、都市の建設などに尽力・手腕を発揮したが、伊奈家の子孫が関東郡代を世襲した例外を除いては慶長年間にはほぼ消滅(病死や失脚など)、その広大な支配地は多くの代官により分割統治された。

※伊奈忠次は三河国幡豆郡小嶋村の出身。徳川家康の長男・信康に仕え、次いで家康の近習となった。その後、地方支配に従事。家康が関東に移封された後は代官頭として徳川家の関東支配に貢献した。そこで家康は、次に武蔵国小室など1万3千石を与え(小室藩伊奈家の初代当主)、従五位下、備前守に叙したのだった。彼は、武蔵国足立郡小室に陣屋を構えて、江戸幕府の関東領国の検地・治水・新田開発、村落の造成などに敏腕を振るい、更に広く民政全般にわたって活躍、幕府体制の基盤作り寄与した。また、その検地法は伊奈流または備前検地などと呼ばれ、その6尺を1歩とする制度は江戸時代の土地丈量法の基準となった。

※大久保長安は始め甲斐武田家に仕官、次いで徳川家の家臣となり、後年、江戸幕府の勘定奉行や老中となった江戸時代初期の幕臣、従五位下・石見守。武田氏に仕えた猿楽師・大蔵大夫 金春七郎喜然の次男とも。大久保忠隣の庇護(大久保姓に改姓)を受けて活躍、徳川家の関東入国後は代官頭として農政に秀で、特に石見銀山・佐渡金山・伊豆金山などを開発した鉱山奉行としても有名である。武蔵国八王子に陣屋(小門陣屋)を構えて管轄地の民政を指揮した。一里塚の築造、八王子千人同心の生みの親。しかし慶長18年(1613年)4月に駿府で病死(享年69歳)の後、その行いに関して職権濫用・不正蓄財や数々の陰謀への関与が疑われて、石川康長ら遺子7人が切腹、家系は断絶・改易とされた。また大久保忠隣も連座して改易となった。

また関西地方では、経済政策を中心に活躍した豪商代官・町人頭として茶屋四郎次郎清延や角倉了以・末吉勘兵衛利方などがいたが、こちらも鎖国政策の進展で海外貿易が制限されてくると幕府の代理人としての職務等に関しては振るわなくなり、次第に通常の幕臣官僚へと交代する傾向を強めていった。

江戸幕府はその後、当初の在地性の強い給人代官の世襲を廃して天領の代官個人への帰属形態を改めていき、代官の評価基準を見直しながら、純粋な徴税行政官へと脱皮させていった。こうして年貢の効率的な徴収が彼らの任務の第一であり、農業経営の維持が代官職の最優先の任務とされた。

特に関東では代官たちの江戸定府(常在)を促進、これはより天領支配の中央集権化を図る為であった。また代官の個人的な管轄支配地との癒着を防ぐ目的もあり、同一地域を複数の代官で担当する相代官制が採用されたりもした。

元禄期以降は代官の地位や職務が明確となり、また勘定奉行配下の役人から代官への登用が顕著となる。その代表的な昇進ルートは、支配勘定から勘定もしくは勘定組頭、そして代官へと昇るコースであった。

しかし享保期に入ると、例えば大岡越前守配下の代官たちに見られる様な、勘定所系出身の封建的財務型官僚タイプではない、しかも幕臣とは限らない特異な出自や特殊技能を持つ者たちが現れてきたが、それは彼らと旧来の勘定所系代官を競合させる形で、新田開発等の成果の向上を目指したからとされている。

※大岡支配役人の代官とは、大岡越前守忠相に見出され、その下で治水・灌漑に長けた地方巧者として活躍した代官たちのこと。享保7年(1722年)に関東の農政を掌る関東地方御用掛を江戸町奉行が兼任した際に、町奉行の大岡が身分に関係なく有能な人材を登用した。この中には田中休愚(川崎宿本陣名主)やその息子の田中喜乗、蓑正高(田中休愚の娘婿、宝生流の猿楽師)などの身分を超えた抜擢組と、もともと旗本で勘定所系として代官に任命されていたが大岡配下に異動した岩手信猶や荻原乗秀(勘定奉行・荻原重秀の子)などがいた。

 

さてこうした一般的な江戸幕府の代官は、原則として下級旗本(家禄200石~300石クラスの小身者)が就く役目であり、支配地が広域に及ぶ割には役料も150俵あまりと少額で、少ない予算と限られた人員での活動を強いられた上に、失政等があると直ぐに罷免される大変難しい役目であったとされるのだった。

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