【江戸時代を学ぶ】 幕府直轄地(天領)の行政官、代官と郡代 について 〈25JKI00〉

郡代

郡代とは、室町期から江戸時代にかけての職名。鎌倉時代に守護の代理人として軍事・警察権を行使していた守護代が、室町時代に入ると租税関係(年貢の徴収)をも管掌する様になる。そして、一般的にはこの守護代の下で郡単位(通常の支配地域は1~2郡)で領地を支配した代官職を郡代や郡奉行と呼んでいたが、守護代そのものを郡代・郡奉行と呼称する場合もあった。

この様に時代によって厳密な意味合いは異なるが、一般的にはその土地の領主に代わって徴税・司法・軍事等の職務を郡といった地域単位毎に担当した地方官吏で、すなわち郡単位の代官のことを郡代を称したのだった。

室町期の例を挙げると、西国の有力守護大名・大内氏配下の郡代の職務は、管轄地域の寺社・給人への大内氏の命令伝達とともに同地域の状況を大内氏に報告することや、郡帳(郡の土地台帳)を基に管轄内の土地を管理し、同地域から諸役(段銭等の公役や郡夫など)を徴収・管理すること、並びに警察・裁判権を行使すること等であった。尚、大内氏支配下の筑前国では郡代が城督(城代)を兼ねて軍事的権力をあわせ掌握している例も存在したとされる。

戦国大名の領域支配に関しては、東国においては相模国の後北条氏や甲斐国の武田氏において郡代の存在が確認され、後北条氏の領国においては郡単位で公事業務が取り扱われ、この郡代の支配制度がやがて支城・城代制へと移行したとの学説もある。しかし後北条氏の場合、公事賦課・収取の為の行政区分である郡の他に知行単位としての領が存在し、領単位で軍事指揮権を握る城代が郡代の権限を兼任していたとも指摘されている。

一方、武田氏の領国においては、城代が郡代の業務である諸役賦課・収取権と軍事の指揮権を兼ねていた(この職を郡司と呼ぶ)ともされるが、但し、この城代は所轄の郡域全体を掌握・支配してはおらず、支城の管轄外地域については当該郡部を担当する奉者が別に複数おり、彼らの存在が郡代や郡奉行に替わる者としてクローズUPされている

※郡司(ぐんじ、こおりのつかさ)とは、律令制下において朝廷から派遣された国司の下で、郡単位の地域を治めていた地方官のことである。律令制から荘園制への移行に伴いその勢力は衰えたとされる。しかし中世以降に於いても、かつて郡司を輩出した地方豪族の子孫が、自称にて郡司を名乗っている例も散見出来た他に、実際に一部の地域では地域支配の形態の一つとして細々と生き残っていた。その後の時代、守護大名の支配の下でも、郡を単位として地域的な支配を行う郡司(もしくは郡代官や郡使など)と呼ばれる役目があり、更に戦国大名の領国支配の仕組みでは守護代の下位に(郡単位に)郡代を置いている場合もあった。

 

郡代は、江戸時代には幕府直轄地(天領)の民政を司る地方行政官を指し、原則として勘定奉行の支配下に属して、特に管轄区域が10万石以上の)広大な場合や枢要の土地、もしくは外様大藩付近の地域などを治める者を、代官の上位の身分・格式の役職として郡代と称した。

江戸幕府の郡代は、江戸時代初期には上方、尼崎、三河、丹波、河内などほぼ1国単位に設置されていたが、後には関東・美濃・飛騨・西国の4か所に置かれた(関東郡代は廃止と再設置を繰り返す)。

この郡代の身分は旗本で役高は400俵、躑躅之間(つつじのま)詰、布衣である。既述の通り、支配地は10万石以上であった。また諸藩においては蔵入地などの地方役人に同名の職種があり、代官の項で述べた通り郡代にも対応した同様の役職として、郡奉行(こおりぶぎょう)等があった。

幕府の郡代の職掌は、勧農・人別改・貢租収納などの地方業務と、警察・裁判・処刑などの公事方業務があったが、これは原則として代官のそれと変わらない。またその組織も郡代の下に手附や手代・下手代などがいて、これも代官所の陣容を支配地の広さに比例して若干拡大した程度であった。

寛永19年(1642年)の勘定頭制の施行に伴い、原則として郡代・代官はその管轄下に置かれたが、例外的に老中支配の郡代官が置かれて郡代とほぼ同様の職掌を扱うことがあったが、寛文8年(1668年)には廃止されている。尚、関東郡代の身分・組織等の変遷については以下(次頁)にて詳述する。

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