【江戸時代を学ぶ】 幕府直轄地(天領)の行政官、代官と郡代 について 〈25JKI00〉

■関東郡代

関東郡代とは、徳川幕府が寛政4年(1792年)に関東地域に設けた郡代のことで、関東代官の職に就いていた伊奈家が同年に改易された直後に置かれた役職である。また近年の研究によると、この年の関東郡代の正式な設置以前の関東郡代の職名は、3代伊奈忠治以降、関東代官であった伊奈家当主が代々にわたり勝手に自称していたものと見做されている。

さて、徳川家康が関東入府した直後に伊奈忠次を代官頭のひとりとしてから、その後の約200年、12代にわたり伊奈家が関東代官の地位を世襲したが、上記の通り寛政4年1792年)3月に伊奈忠尊の代で伊奈家は内紛・御家騒動が原因で関東代官を罷免、改易されてしまう。

この伊奈家の改易によってその強大な権限は分割され、直後には勘定奉行・久世広民の兼任として関東郡代の職が置かれた。だが1806年(文化3年)になるとこの関東郡代は一旦、廃止され、同年、元の郡代屋敷を利用して人員を減じた上で馬喰町御用屋敷詰代官として従来に近い民政活動を暫し行い、併せて郡代の職権の内の警察権力の代替補助機関として、関八州見廻役や関東取締出役などを設置して治安維持対策に当たったが、幕末期の不穏な社会情勢に対応するのには不充分であるなどの課題が多く、文久の改革を経て、元治元年1864年)の天狗党の乱などを契機に同11月には再び関東郡代が設置された。

関東郡代の定員は4名で、関八州の内2か国ずつを管轄・支配することとされた。また、管轄する地域に関しては、幕府直轄地(天領)以外の旗本領や寺社領などに対しても訴訟や治安維持に関する権限を行使することが可能とされ、更に新田開発や治水灌漑・酒造制限・生糸改印などの民政・経済政策の両面に関する権限も強化されていた。この関東郡代の下には組頭以下の属僚が置かれ、更に8名いた関東代官は全てがこの関東郡代に付属された。将来はこれらの関東代官を全廃して関東郡代による関東地方の広域・直接支配を意図していたとの説もあるが、設置当初から定員1名を欠き、その後も人事異動や将軍上洛の御供などによって4名全員が現地で職務に就くことはなかった。

その為、1867年(慶応3年)1月26日、改めて関八州(相模国を除く)を二分割して関東在方掛を設け、関東郡代であった木村勝教・河津祐邦を横滑りさせたが、同年2月5日には関東郡代は再々度の廃止となる。

※関東在方掛(かんとうざいかたがかり)とは、江戸幕府が関東地方支配の強化を目的として従来の関東郡代に代わって設置した役職(役高は2千石、勘定奉行並)だが、江戸幕府の解体に伴って廃止された。

ちなみに、江戸近郊における郡代管轄の地域は「御府外(朱引外)」と言い、町奉行のそれは「御府内」とされ時代を経るにつれ町奉行の支配地が拡大していった。

■西国筋郡代(西国郡代)

西国筋(西国)郡代とは、九州の江戸幕府直轄地の民政を司る行政官である。寛永16年(1639年)に豊後日田代官が置かれたが、明和4年(1767年)に代官の揖斐政俊が、それまでの実績を評価されて郡代に昇格した。時代により変遷はあるが、この郡代が管轄する天領は全国の天領の内で第2位の石高を誇る大きなものであった。またその代官所は豊後国の日田豆田町に設置されていたが、この天領が接していた島津氏、細川氏、鍋島氏、黒田氏といった外様大名家の雄藩との関係性から通常の代官よりは格上の郡代に任じられたとも云われ、その職務には通常の民政活動の他に、長崎奉行などと協力して九州諸藩の動静を監視することも含まれており、「九州探題」とも呼ばれていた。

歴代の郡代では、土木工事・新田開発などで著名な塩谷正義や最後の郡代であった窪田鎮勝などがいる。

■美濃郡代

美濃郡代は、美濃国と伊勢国桑名郡の一部の幕府直轄地(天領)の民政を担当する行政官であり、美濃国は関ヶ原の合戦の後、江戸幕府がこの要衝の地に有力な大名家を配さない様にと勘案して、数万石程度の小藩多数と幕府直轄地の天領に細分した。その結果として美濃国は、約3割が天領となり権限の強い郡代が置かれることになった。しかし美濃郡代の職は世襲ではなく、また代官として着任し郡代に昇格した者(6名)もいたが、代官の身分のままであった者(4名)もいた。その郡代としての席次は関東郡代の次位で、布衣、焼火間詰(たきびのまづめ)、役高400俵であった。陣屋の所在地に因んで、笠松郡代とも呼ばれた。

当初、美濃郡代の陣屋は、1604年(慶長9年)に小早川秀秋の家臣である平岡頼勝が、可児郡徳野(現可児市徳野)に築いた徳野陣屋にあった。平岡頼勝は徳野藩1万石の大名であり、この地を治めていたが、子の平岡頼資の死後、徳野藩は取り潰されている。1650年(慶安3年)、岡田将監善政(岡田善政)が木曽川の堤防工事の為、交通の便の良い羽栗郡傘町に仮陣屋を置く。1669年(寛文2年)、名取半左衛門が正式に傘町に陣屋を移して地名を笠松に改めた。以後明治維新まで、笠松陣屋に美濃郡代は置かれた。

■飛騨郡代

飛騨郡代とは、江戸時代に4ヶ所設置された郡代の一つで、飛騨国全域の天領の民政を司る行政官であった。役高400俵で布衣着用が許され、代官としては関東・美濃・西国筋に次ぐ序列第4位である。

天正16年1588年)より飛騨国一円は飛騨高山藩金森家によって治められていたが、元禄5年1692年)、江戸幕府は当時の藩主金森頼時を出羽国上山藩へ移封し、飛騨国を天領化し関東代官の伊奈忠篤が代官を兼任した。これは幕府が飛騨の豊富な木材資源と鉱物資源(銀・鉛など)に着目し、幕府財政の安定を図る目的があったと考えられている。以後、高山城を廃城とし、高山城の下屋敷を高山陣屋として地域の管理を行なった。安永6年(1777年)には11代目の官(大原紹正)が郡代に昇格。以降、明治維新までに14代の郡代が任命されている。また高山陣屋は、江戸時代の建物が唯一現存する貴重な天領陣屋である。

 

時代劇で悪徳商人と結託し私腹を肥やす、あの「お代官様」の実像は、幕臣・旗本の中でも決して高い身分では無く、それどころか実は思ったよりも懐具合も豊かではなくて、(時代劇などで描かれる姿とはだいぶ異なり)とてもあの様な豪華でギンギラギンの羽織袴を着れる様な余裕はなかった。

史実の彼らは少ない予算をやり繰りしながら、脆弱な体制の下、数少ない属僚たちの努力で何とか所管地域の行政活動に従事していたのであったが、周囲からはその実態を知るが故に、また庶民からは徴税の厳しさへの反発・反感からか、きっと代官たちが不正行為を働いたり管轄地域と癒着していると疑われたのであろう‥‥

-終-

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