【江戸時代を学ぶ】 関東取締出役(八州廻り)の実像 中編 〈25JKI00〉

今回の【江戸時代を学ぶ】は、“関東取締出役(八州廻り)の実像”の中編として、主に出役の創設時から“文政改革”に至るまでの活動内容の変遷と詳細について述べたいと思う。

尚、当初は本稿を後編としていたが思いの外に長尺となり、二分割して、天保期以降や幕末における出役の活躍とその廃止並びに彼らが内包した課題・問題点については、次回の後篇で詳しく解説の予定であることを、読者諸兄には了解願いたい。

前編はこちらから ⇒ 【江戸時代を学ぶ】 関東取締出役(八州廻り)の実像 前編

 

1. 設置当初の関東取締出役

実は関東取締出役は、時期により少しづつ異なる性格を有していたとされるのだが、当初(文化期、1804年~1818年)の出役の創設に関しては、寛政・享和期(1789年~1804年)の在方取締り(警察捜査)活動の限界と公事吟味(訴訟事務)の処理停滞が原因だと云うのである。またこれらの課題に対して、当時の勘定所公事方や代官所の体制では充分な対応が出来ていなかった。

また、ちょうどこの頃(18世紀後半)から、関東地方の農村部でも大都市・江戸やその周辺の人口集積地帯からの需要に応える必要性から、また全国的な商品経済・流通の発達により、農民の多くに養蚕・製紙・織物などの特産物生産に転換する者が増えてきた。稲作オンリーでは一向に生活が豊かにならない点から、副業としての商品作物や手工芸品などの生産や製造が盛んになっていく。

更に加えて、農民らは副収入を得る為に出稼ぎに出たり、髪結い床(理髪店)を開業したり各種の職人に転職して農業から離れる場合もあり、地回り物を扱う商人となった者が急成長の果てに旧来の株仲間商人と争ったりと、農村部においても従来とは異なる社会構造が生まれて来た。農業生産に継続して関わった者も、小前百姓として名主などの村役人クラスと対立関係に陥った場合も多かった。

こうした社会的背景から小規模の稲作農業経営の解体が促進され、また郊外の村々においても高利貸の活動が活発化して負債を負った貧農の没落を更に拡大させ、一部の農民の富裕化が進むことに反比例して土地を失って流浪する農民が多数発生した。彼らの多くは無宿人・渡世人となって領地の境界を越えて移動し、はたまた江戸へと流入して、江戸及び関東各地の治安を悪化させる大きな要因となる。

※小前百姓とは江戸時代の小農民全般のことであり、ここでの「前」は身分とか分限の意である平百姓とも。一般的には、耕地や宅地を所有し年貢を負担する本百姓をすべて小前百姓と呼んだが、本百姓の分解が進む江戸時代中期以降、村役人クラスの大高持(大前)に対して一般の本百姓もしくは水呑百姓の様な零細な困窮農民も含めて中下層農民全体を指す場合が多くなった。

※中山道伝馬騒動とは、明和元年(1764年)から翌明和2年(1765年)年にかけて主要街道の一つであった中山道沿いで発生した伝馬助郷制度の強化に反対した一揆のこと。武蔵・上野・信濃および下野の一部にわたって発生し、20~30万人が参加したといわれる大騒動となった。更なる規模の拡大や、江戸市中への飛び火を恐れた幕府は、助郷の追加負担を取り下げて沈静化を図った。ちなみに、当時の関東代官の伊奈忠順が、騒動鎮静化に向けて一揆勢との交渉に当たり活躍している。

※天明元年(1781年)には、“絹一揆(きぬいっきと呼ばれる大規模な騒動が野国西部一帯にて展開されたが、これは(絹市での)絹生産とその取引に対する課税(絹改料)反対を求めるもので、2万人規模の農民や一部商人が強訴・打ち壊しに及んだとされる。“絹運上(きぬうんじょうそうどう)”とも言われる。結局、騒動の拡大と長期化を恐れた幕府の決定で、絹改料の徴収は取りやめとなり一揆は解散・終息した。

この様な状況の下、文化元年(1804年)には“牛久助郷一揆”が発生、この結果を憂慮した江戸幕府は在方秩序の強化を目指して新たな対策を検討したが、それが関東取締出役の創設に強く影響を及ぼしたとされる。

また、もう一つの出役設置の背景として、“牛久助郷一揆”より遡ること12年前の寛政4年(1792年)3月罷免・改易された関東代官・伊奈氏(改易当時の当主は伊奈忠尊で、勘定奉行の配下ではなく老中に属していた)の存在について触れる必要もあろう。

その強大な権力から、関東郡代を自称した伊奈氏の関東地方の天領(幕府直轄領)における影響力の大きさは格別であり、その伊奈氏が改易された時期と関東地方の農村部における社会秩序の乱れ・治安の悪化が大きく問題化する時期は重なっているとの専門家の指摘もあるくらいだ。更にその直後の関東郡代の正式配置と文化2年(1805年)の出役の設置文化3年1806年)の関東郡代廃止といった行政・警察制度の目まぐるしい転換も注目点であろう。

※“牛久助郷一揆(うしくすけごういっき)”とは、文化元年1804年10月、新たに助郷村を増やすことに対して窮乏化を深める村々(信太・河内郡55カ村)が一斉に反発して、牛久宿近くの女化原付近で起こした百姓一揆のこと。大勢(1,500人とも)の百姓たちが徒党を組んで暴れた(牛久宿の問屋宅や阿見村役人宅の打壊しを行った)為、幕府老中の青山忠裕から佐倉藩と土浦藩に対して騒動鎮圧を目的とした出兵が命ぜられた。短期間で一揆は沈静化したが、勘定奉行所の裁きにより首謀者3名への処罰(獄門1名・遠島2名、但しいずれも獄死)が下された。一揆参加の村々は、関宿藩・仙台藩・谷田部藩などの藩領と旗本知行地の村々であり、皆、領主の行政活動が不行き届きな飛地であったと考えられている。

※助郷(すけごう)とは、江戸幕府が諸街道の宿場の保護、並びに人足や馬の補充を目的として、宿場周辺の村落に課した夫役のこと。

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