【江戸時代を学ぶ】 関東取締出役(八州廻り)の実像 中編 〈25JKI00〉

こうして勘定奉行の求めた、当分の措置としての長脇差携帯の重罪化が実現した。長脇差を帯びて犯罪を行った場合は死罪の上で捨札とし、長脇差を携帯していたのみの場合は遠島となった。またこれは悪事の有無や、無宿か有宿の区別なく適用される点で、純粋に長脇差という武具を規制する法であった。つまり、農民(百姓)が当時の身分制度から逸脱しない様にとの身分表象規制であったと云えよう。

またそれは、現実に極刑をどんどんと執行することが目的というよりは、威圧効果重視でもあった。謂わば法支配の強化を目指したものであり、老中の書付として関東地方の村々を対象に出されたこの『長脇差禁令』は、個別領主や代官を通じて村々へと伝達されたのである。

そしてこの『長脇差禁令』が、帯びて外出しなければ所持していても構わないと云うのであれば、これはまさしく身分表象規制であるとしか考えられないし、裏返してみると身分表象規制故にあくまで“帯刀”が禁じられたのである。即ち文政9年(1826年)の『長脇差禁令』は、治安維持の為の法令ではなく、身分統制を目的とした法令であり“刀狩令”の範疇だとの解釈もあり得た。つまり治安が悪化しているからこそこの様な“刀狩令”を実行して身分表象を規制し、風俗を糺して治安の回復を図ったとする考えが有力である。

※捨札(すてふだ)とは、犯罪者を処刑する際に、その人物の氏名・年齢・罪状などを記して街頭に高札を立てたこと。

先に述べた様に、幕府内部にはあまりの重罪化に対する違和感と法秩序(バランス)が極度に乱れるという不安が存在していたが、少なくとも天保10年(1839年)頃までは継続してこの処罰が適用されていたことが確認されている(「御仕置例類集 天保類集」・「御仕置例類集 続類集」)。

 

3. 文政10年以降、及び“文政改革”の概要

幕府は、益々の治安悪化に対処したこの『長脇差禁令』の発令により、大量の逮捕者の増加とそれに伴う町村の負担増大が予想されたことで、出役の管理徹底と関東地方の町や村々の同役に対する支援・協力体制の強化を図り、また各々の農村に対して農民の本分を改めて教諭する内容を示したのだった。

また関東地方における出役を頂点とした治安維持や警察・警備の為の指揮連絡体制の組織化を促進し、係る費用を数多くの村々で分担することにより一村当たりの負担の軽減を目指したのであった。そしてこれら一連の動きが、所謂(いわゆる)、“文政改革”と云われる政策活動の実行となっていく。

具体的には、新たに関東取締出役を監督する関東在々取締方御用掛取締代官を任命した上で、勘定奉行により『御取締筋御改革』に関わる長文の触書を出して、該当地域において改革組合村という名の組織の設置を命じることになる。

 

4. 関東在々取締方御用掛について

先ず、関東取締出役に対する改革としては、文政10年(1827年)正月、柑本兵五郎・山田茂左衛門・山本大膳の3名が出役を統制する為に関東在々取締方御用掛に任じられた

またその際の指示には、「(出役は)無宿徘徊者や裏で博奕を業とする者、強請(ゆすり)の者を召捕り良民安堵に農業出精出来るようにすること。召捕の人数を競わず、宿場や村方の負担にならないようにすること。便利な場所だけを廻村するのではなく、辺鄙なところまでくまなく廻村すること。出役10名の内8名で定式廻村を行い、残り2名は江戸詰めで“奉行所御用”を務め、状況次第捕り物に出ること。道案内や手先は人物を選ぶこと。囚人吟味の為に、30日・40日も村に逗留しないこと。捕り物を手先だけに任せないこと。出役に関していかがわしい風聞があれば容赦なく交替させること。廻村時は股引きを着用すること。白衣着流しなどを着たり、自分専用の籠を使ったりしないこと。勘定奉行からの指図は取締代官を通して出役に達すること。出役からの申し立ても取締代官が受けつけること(新任者は)出役の中の古役の者を師匠に、見習い期間として2・3か月は行動を伴にすること。捜査方針を徹底すること。取締代官3名のもとに関東取締出役を置き、管理を強化する体制を確立すること。」などが通達された。

この内容を見るに、ここには出役の課題・問題点(後述)とされる行為の是正指示が多数書き連ねてある。幕府はこの取締代官の設置により、出役の管理(マネージメント)を徹底して、彼らの不行跡を改めるべく行動規範を再整備したのだった。

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