【江戸時代を学ぶ】 関東取締出役(八州廻り)の実像 中編 〈25JKI00〉

5. 『御取締筋御改革』について

一方、幕府は『長脇差禁令』の施行直後、具体的には文政10年(1827年)2月に、一部地域(水戸藩領など)を除く関八州全域に対し『御取締筋御改革(おとりしまりすじ ごかいかく)』を発布する。

これは前半5ヶ条の請書と後半40ヶ条の議定書からなる合計45ヶ条からなるもので、その中の取締りや禁止事項には、長脇差・鉄砲・槍などの武器及び無宿人・浪人に対する取締りや、神事・仏事・祭礼・婚礼などにおける華美な行いを禁じ(質素倹約を奨励)、村方における歌舞伎・相撲などの娯楽や賭博の禁止、並びに強訴・徒党の禁止、そして農間余業や若者組に対する諸々の制限等が命じられている。

更にその細目をみていくと、最初に百姓本来のあるべき姿や公儀法度の遵守の重要性が述べられている。そこでは孝を尽くして目上の人を敬い、悪事を禁じては身を慎むべきこと、そして争い事などが起きぬ為に法度があるのだと諭している。

次いで家職(農業・稲作)を第一として、年貢を納めることが百姓本来の務めであることを語り、彼らに強く勧農を説いている。一方、村役人には、百姓が他の仕事、例えば職人や商人などへと転職しない様に心掛けることを要請していた。

禁止・制限事項などに関しては、議定書第9条では博奕を禁止し、第26条では無宿を帰農させることを命じている。第27条では無宿へは先ず村役人などが意見をし、それで聴き入れない場合には出役が厳しく説諭し、それでも改心しない時は帳外にして捕縛・取調をして出役のもとへと召し連れる様にと指示している。更に若者組仲間の組成を禁止しているが、これは未熟な若者たちの集団による強請や暴力行為を未然に防ぐ目的であったと考えられている。

こうしてみると、“文政改革”の基本理念は農村における「身分統制」や「風俗取締」に重点が置かれており、重犯罪者の取締り・捕縛と云うよりは当該の農民たちが道を外さない様にと教諭することにあったとも考えられている。

 

そして関東取締出役は、“文政改革”の理念・趣旨を管轄域の町村を巡り、触れて廻ったとされている。こうした内容を対象町村(改革組合村候補)に事前に提示することで、宿場役人や村三役らが協議した結果、応諾する請書等の受領が行われていたことが知られているのだ。

出役は一つの地域を少なくとも二度は訪れたとされ、その一度目の廻村で改革の趣旨を申し渡し、改革組合村の結成を指示して廻った。その後、二度目の廻村を実施しては、組合村の編成を確定した書類等を提出させて改革の目的を改めて教諭したのであるが、これにより改革組合村の編成は完了とされた。全ての改革組合村の成立が確定した時期は明確でないが、遅くとも文政12年(1829年)の秋頃までには概ねこの制度は機能し始めているとされる。

この一連の活動によって、幕府中央の方針が出役を通じて速やかに関東地方の隅々にまで指示・伝達される体制が整い、また併せて各地域の揉め事や騒動の種となる不平不満の声を1次的に組合村組織で対応・処理させることで大規模な騒動や一揆などの発生を事前に防止して治安維持の体制を強化することに加えて、地方の農村部における商業や産業の無統制な発達・発展に関する制御措置が図られた。

※“文政改革により、出役の役目は犯罪人の捕縛や農民に対する教諭ばかりではなく、より効率的な幕府の触の伝達役となったこと、つまり関東広域の民衆に対する速やかで確実な上意下達の方法を獲得したことである、とも評価されている。

※“文政改革”の触書を細密に検討すると、前文にあたる請書部分は前年の『長脇差禁令』の徹底を目的としたものであり、初回の関東取締出役廻村時に提出されたと考えられ、これに対して後文である議定書は改革組合村の結成が完了した時点で提出するものであったとする識者も多い。

※文政期の金銭価値は、『文政年間漫録』などによると金1両が約8万円、銀1匁が1,200円で銭1文は現在の12円くらい。1両=6,700文の換算レートとなって銭の価値が下落している。諸物価は、米1升は150文、酒1升200文、かけ蕎麦は16文、銭湯の料金が8文、床屋は32文、裏長屋の家賃相場は600文だった。

江戸幕府によるこの組合村制度を介した農村支配の体制は、以後、幕末から明治維新寸前に至るまでの関東地方統治の根幹として機能していくことになる。

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