【江戸時代を学ぶ】 関東取締出役(八州廻り)の実像 中編 〈25JKI00〉

8. 文政改革”のまとめ

ところで、『長脇差禁令』の施行と改革組合村での活動における、その方法論の違いに着目してみよう。『長脇差禁令』等の法度(法令)による支配は一方的であり強硬で厳重な刑罰を伴うが、教諭による対応では、原則として罰則などを伴わない人格的であり身分的な権威を背景とした教諭(教令)が、その対処方法であった。幕府は、確かに法度支配の強化を目的としながらも、その限界を補完する教諭支配の有効性に大きく期待したのであろう。

また出役の教諭内容は、農民の身分や風俗取締りに重点を置いており、これにより“文政改革”は単なる治安維持を目的とした策でなく、勧農政策的な要素が強くなる。こうして法度と教諭の執行を並立的に担う出役の本来的な性格が、より際立つ形となっていく。

そして改革の趣旨の中で、良民の害になる者は村々が自ら差し押さえ、心得違いの者を教諭し、それでも改心なくば個別領主や関東取締出役へ訴え出るようにと命じていたが、これは単純に『長脇差禁令』の遵守を指示したものではなく、それに基づく治安維持・強化の実現の為に背負うべき、個々の村々の日常的な責任の具現化にあったと云えよう。

更に“文政改革”は、前述の様に関東取締出役が時間をかけて各地を廻村し、町・村役人へと直接に申し渡しを行うことで進行していった。即ちここで重要なことは、『長脇差禁令』は老中の書付として出されて個別領主へと通達されたものだが、“文政改革”の触書は関東取締出役が当該の村々に対して直接実行した教諭を根拠としている点である。

 

天保期へと連なる文政の時代も後半になると、災害が頻発(豪雨・大火・地震)。天候不順が続き凶作による騒動・強訴、そして百姓一揆や打壊しが全国の各地で発生し、人心も大きく揺れ始めていった‥‥。こうして益々、関東取締出役の責任は重大となる。

さて次回の後篇では、天保期や嘉永期における出役の活動内容や文久期・慶応期等の明治維新間際におけるその立場の変貌ぶりについて詳しく述べてみたい。

-終-

前編記事 ⇒ 【江戸時代を学ぶ】 関東取締出役(八州廻り)の実像 前編

後篇 ⇒ 【江戸時代を学ぶ】 関東取締出役(八州廻り)の実像 後篇

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