1941年6月22日、“バルバロッサ「赤髭」”作戦の発動時点ではホトの第3装甲集団は、フェードア・フォン・ボック元帥の中央軍集団に属し、同じく中央軍集団に属するグデーリアンの第2装甲集団と連携して進撃を開始し、早くも6月28日にはミンスクを占領してソ連赤軍の西部方面軍(パブロフ上級大将)を構成する3個軍を包囲、30万人近いソ連兵を降伏させることに成功した。続いてスモレンスクへ進撃・包囲攻撃を実施し、ソ連軍と激闘を繰り広げた。
この時、第3装甲集団の内、第57装甲軍団は北方軍集団を支援することになり、残りの第39装甲軍団がソ連軍の包囲を狙ってスモレンスク南西部を迂回し、7月10日にはヴィチェプスクを攻略して第2装甲集団との合流を目指した。グデーリアン率いる第2装甲集団は南西方向からスモレンスクに向かい、ドニエプル河を渡るとモギリョフでソ連軍第61狙撃軍団と第20機械化軍団を包囲・攻撃した。2週間の激戦の後に、独軍はモギリョフを占領したが、彼らも多くの味方将兵を失った。
7月16日にはスモレンスクが陥落し、その直後、第39装甲軍団の先鋒はスモレンスク北方のヤルツェヴォを占領し、スモレンスク=モスクワ間の自動車道路と鉄道を切断した。
当時、ホトはソ連軍の包囲殲滅に作戦の重点を置いていたが、最短距離でのモスクワへの進撃を主張するグデーリアンは指揮下の第46装甲軍団をモスクワ方面へ移動・進軍させる。この為に包囲網が不完全となり、包囲環の中からソ連軍の一部(約10万人)が脱出に成功してしまう。だがその後、何とかソ連・西部正面軍の反撃を退けた独軍の中央軍集団は包囲網を維持・完成させて、8月4日までに多くのソ連軍部隊を撃滅した。
この様に、モスクワ攻略の方針に関しては二人は度々対立したと云う。しかしホトは激情家ではあったが、意見の対立を感情的なしこりに発展させることはなく、両者の関係が必要以上に険悪化することはなかった様である。
また勝者の側の独軍の被害も甚大であり、7月中旬の時点において第2装甲軍の稼働率は29%に低下、第3装甲軍の稼働率は42%にまで下降していた。ホトは「ロシア人は強力な巨人だ。戦力の消耗は得られた成果より大きい」と嘆いたと云われる。尚、ホートは作戦の成果を評価されて、7月17日には柏葉付騎士十字章の受賞者となっている。
その後、ホトは第3装甲軍と共に9月30日に開始された“タイフーン「台風」”作戦に参加してモスクワを目指すが、攻勢発動直後の1941年10月5日には、国防軍最高司令部との意見対立で解任されたカール=ハインリヒ・フォン・シュテュルプナーゲル歩兵大将に代わり、中央軍集団を離れて南方軍集団に属する第17軍の司令官に転じることになった。
この第17軍はドニエプル河とドネツ河の間隙部に展開して、ロストフ攻略を目的としたエヴァルト・フォン・クライスト将軍(当時は上級大将、後に元帥)率いる第1装甲軍を左翼(北)側から援護する目的の部隊であった。
尚、モスクワを目指した独軍は、クレムリンまであと十数kmのところまで迫ったが、例年より早い冬の到来によって発生した泥濘と降雪が進撃を阻み、冬季戦用装備も不充分で燃料・潤滑油等の補給もままならず、何よりもソ連軍が猛然と抵抗したことで、独軍の“タイフーン「台風」”作戦は頓挫したのだった。
さて、ホトが新たに指揮を執ることになった第17軍は、第4と第32、そして第44の3個歩兵軍団から構成されており、2個自動車化歩兵旅団と2個の騎兵旅団その他から成るハンガリー機動軍団を除けば機動化した戦力をほぼ保有していなかったが、何とか第1装甲軍に追随しては、その左翼側面を守備した。
ところで1941年11月、ホトは指揮下の部隊にユダヤ人絶滅や捕虜にした共産党政治将校の即時処刑を命じる指令を下達し、占領地におけるゲシュタポ・親衛隊の特務殺戮部隊の活動に同調したとされるが、このことが後のニュルンベルク継続裁判の一部である国防軍最高司令部裁判において、懲役15年の判決を受ける有力な原因となる。
またその頃、ソ連軍の冬季大反攻が始まると、ホトの第17軍とその左翼(北側)に位置する第6軍の間隙を突いて、幅70km、奥行き100kmに渡る地域に敵軍の侵攻を許すが、突出部の付け根にあたるスラヴャンスクに関してはこれを死守、翌1942年5月の第2次ハリコフ攻防戦で第1装甲軍を基幹としたクライスト軍集団などと連携して、このソ連軍突出部を撃破し、同地域を再度占領したのだった。
1942年5月15日、ホトはエーリヒ・ヘプナー上級大将の解任の後を継いだリヒャルト・ルオッフ上級大将(ホトを入れ替わり第17軍司令官へ異動)の後任として南方軍集団所属に転じた第4装甲軍の司令官に任命され、彼の第4装甲軍は“ブラウ「青」”作戦ではB軍集団(この時、南方軍集団がA・B軍集団に分割・再編された)に属してヴォロネジへと進撃し、次いでスターリングラードへと向かい、9月13日以降、激しい市街戦に突入した。
激戦を経てスターリングラードの大部分が独軍占領下に入ると、その後の戦闘は同じB軍集団の第6軍に任して第4装甲軍は予備兵力としてドン川流域へと移動した。しかし、11月19日に開始されたソ連軍の反攻作戦で第6軍がスターリングラードで包囲されるとホートは、12月11日以降、マンシュタインの新設ドン軍集団の一員として、指揮下の第57装甲軍団(フリードリッヒ・キルヒナー装甲兵大将指揮)を用いて包囲されたフリードリヒ・パウルス上級大将(後に元帥)率いる第6軍その他の部隊の救出を目的とした“冬の嵐”作戦に加わり奮戦する。
第57装甲軍団は、麾下の第6装甲師団に所属する“ヒューナースドルフ戦隊”の大活躍で救援成功まで残りあと一歩の地点まで進んだが、ソ連軍の大量の増援部隊に阻まれて、12月26日には作戦の継続を断念し撤退を開始、包囲され孤立した第6軍は翌年1月から2月にかけて降伏した。
更にこの直後、独軍はB軍集団を解消し、マンシュタインのドン軍集団を南方軍集団へ改組して第1装甲軍もこの南方軍集団へと移され、組織的な再編を実施していた。
ちなみにホトは東部戦線の序盤で、既に述べた如く同僚のグデーリアンとは作戦方針をめぐって対立する場面も見られたが、失敗したとは云え、この“冬の嵐”作戦以降の中盤戦、上官となったマンシュタインとの間に強固な関係性を構築、厚い信頼のもとに幾度もソ連軍の攻撃を跳ね返すことになる。
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