その後のソ連軍は、1943年2月の初旬に独軍の戦線を破ってハリコフ・クルスク・ベルグラードに加え、イジュームルとルハーンシクの奪還に成功する。
だがこの戦況に対して着々と反撃の準備を進めていたマンシュタインは、2月19日にハリコフ方面に向けて、パウル・ハウサーSS大将(最終階級はSS上級大将)指揮のSS装甲軍団(この時点以降、第4装甲軍の所属。1943年7月4日以降は第2SS装甲軍団と改称)を加えた第4装甲軍(ホト指揮)と、エーベルハルト・フォン・マッケンゼン騎兵大将(同年7月6日に上級大将)指揮の第1装甲軍(装甲部隊は第3と第40装甲軍団、他に第30軍団で編成)の戦力で反撃を仕掛け、ドニエプル川へと伸び切ったソ連軍・南西方面軍の隊列を、第4装甲軍所属のSS装甲軍団が北西方面から、同じく第4装甲軍のオットー・フォン・クノーベルスドルフ装甲兵大将が指揮する第48装甲軍団が南側より、第1装甲軍の第40装甲軍団が東側からという、3方向からの包囲攻撃を開始する。
この攻撃により、南西方面軍はポポフ戦車軍・第1戦車軍に第6軍が壊滅的な打撃を受けて敗走した。更に独軍はハリコフ南部のソ連軍戦車部隊に対し側面攻撃をしかけて包囲殲滅させることに成功し、3月15日にSS装甲軍団によってハリコフが再奪還された。
独軍は更に進軍を続けて3月中旬にはベルゴロドの地も回復したことで、ソ連軍・ヴォロネジ方面軍の第3戦車軍・第40軍や第69軍などは、これまた包囲の危機に晒されて撤退を余儀なくされた。この結果、ソ連側占領地にクルスクを中心とした突出部が形成される。
こうして一時的に、マンシュタインの機動防御戦による反撃により東部戦線の独軍・南方地域は崩壊を免れた。またこの時の戦闘は、「マンシュタインのバックハンドブロウ(後手からの一撃)」と異名をとり、装甲部隊を使用した機動防御戦のお手本/教科書として近代戦史の上でも極めて重要なものの一つに数えられている。
上記の第3次ハリコフ攻防戦の結果、クルスク突出部の分断を目指す独軍の攻撃が計画された。これを“ツィタデレ「城塞」”作戦と云う。そして史上に名高い「クルスク(プロホロフカ)大戦車戦」が引き起こされ、ホトの第4装甲軍は、マンシュタイン率いる南方軍集団の主力装甲部隊としてソ連赤軍の強力な機甲部隊と空前の戦車戦を繰り広げることになるのだった。
またクルスク戦での第4装甲軍を編成した部隊には、クノーベルスドルフ装甲兵大将指揮の第48装甲軍団があり、そこには第3装甲師団・第11装甲師団、そして強力なグロースドイッチュラント(大ドイツ)装甲擲弾兵師団(師団長ヴァルター・ヘルンライン)や第167歩兵師団が配属されていた。次いでパウル・ハウサーSS大将率いる第2SS装甲軍団があり、この部隊は第1SS「LSSAH」装甲師団(師団長テオドール・ヴィッシュ)・第2SS「ダス・ライヒ」装甲師団(師団長ヴァルター・クリューガー)・第3SS「トーテンコップ」装甲擲弾兵師団(師団長マックス・ジモン)などから構成されていた。また、その他の装甲部隊以外には第52軍団が所属していた。
尚、この時の第4装甲軍にはティーガー(ティーゲル)Ⅰ型重戦車を装備する部隊や新型のパンター(パンテル)D型中戦車で編制されたマインラート・フォン・ラウヘルト(ラオハート)少佐(最終階級は少将)指揮の戦車連隊などが傘下に置かれ、“ツィタデレ”作戦に参加した同軍は第二次世界大戦中の独軍の中で最も多い1,095輌という大量の戦車や突撃砲を有する一大装甲兵力となった。但し、この新型パンター戦車は戦闘に参加する以前に、多くの車両がエンジンの発火や不調などの技術的な問題に悩まされ、乗員の訓練も充分でなかった為に大した戦果は上げられなかったとされる。
同じく南部戦域で南方軍集団に属した部隊にはヴェルナー・ケンプフ装甲兵大将が率いる軍規模のケンプフ軍支隊があり、第3装甲軍団 (ヘルマン・ブライト装甲兵大将指揮)、第11軍団(エアハルト・ラウス装甲兵大将指揮のもとラウス軍支隊)などが所属したいた。
そして独軍は、この作戦に東部戦線の戦車及び航空機の内6割から7割を動員し、最終的な参加兵力は兵員90万名、戦車及び自走砲が2,700輛、航空機は1,800機に及んだとされる(数値については各種異説あり、例えば兵員43万5千名、砲9,900百門、戦車及び自走砲3,150輛、航空機2,600機とも)。
一方、この独軍の作戦を地上と空中双方からの偵察と諜報活動により早期に察知していたソ連軍は、クルスク周辺一帯に大規模な塹壕や地下壕を掘り、鉄条網・地雷原を設置、砲兵陣地や機関銃陣地にパックフロント(対戦車陣地)を組合わせた大規模な防衛陣地帯を構築して要塞化、同地域に兵員133万名、戦車及び自走砲3,300両以上、火砲を約2万門、航空機2,650機に及ぶ一大兵力(こちらも数値については異説あり)を配備して、独軍の進攻を待ち受けていた。
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