作戦発動日(1943年7月5日)の前日である7月4日、南部戦域では午後から第48装甲軍団と第52軍団が、深夜からは第2SS装甲軍団が前戦観測所を確保する目的で小規模な攻撃を開始した。
北部戦域(クルスク突出部の北沿地域)を担当していた独軍・中央軍集団(司令官ギュンター・フォン・クルーゲ元帥)に所属するヴァルター・モーデル上級大将(最終階級は元帥)率いる第9軍は、突撃砲に支援された歩兵部隊主体による攻撃に終始し、7月10日には、歩兵の損耗増加と第9軍予備兵力の全てが枯渇したことにより、作戦開始時から約12kmほど前進したのみで停止、北部戦域の独軍の攻撃はわずか5日間で実質上の終息をみた。以後、12日には完全に行動を阻止され、14日には全面的な撤退を始めた。
これに対して南部戦域(クルスク突出部の南沿地域)を担当した南方軍集団は、ティーガーⅠ型重戦車を装備した装甲部隊を前面に押し立てた“パンツァーカイル”戦法を導入して攻撃正面のソ連赤軍防御前線を突破し、約10km程度の前進を果たした。
更に7日未明には、独軍・南方軍集団は攻撃の焦点をオボヤンとプロホロフカ地区に指向した為に、ソ連軍・ヴォロネジ方面軍(司令官はニコライ・ヴァトゥーチン上級大将、政治委員はニキータ・セルゲーエヴィチ・フルシチョフだった)はその地区を受け持つ第6親衛軍(I・M・チスチャコフ中将指揮)と第1戦車軍(M・E・カツコフ中将指揮)に対して、重点的に予備兵力の投入を始めた。翌8日には、独軍がこの方面で激しい攻撃を開始、ソ連軍の最前線の防御線を破り第2陣の防衛線までを突破する勢いを見せたので、ソ連軍は同突破口付近に方面軍予備兵力の第2と第5親衛戦車軍団、そして歩兵数個師団に砲兵部隊を急派して対応したのだった。
この様なソ連軍の増勢に遭遇したホトの第4装甲軍は、10日からはプロホロフカ周辺に戦力を集中して再度の攻撃に当たったが、これによりソ連軍の第6親衛軍と第1戦車軍は大きな損害を被り、第6親衛軍の陣地2箇所が破られ崩壊してしまう。
同時期、更にこれより南東方面の戦線では、ケンプフ軍支隊がソ連軍・第7親衛軍の陣地を攻撃して何とか突破には成功したものの、所期の目標地点への到着が遅れて、東方からのソ連軍・増援部隊の行軍を阻止する任務を十分に果たすことが出来ずにいた。
だが第48装甲軍団は、第6親衛軍の陣地を攻略した後も犠牲を重ねつつ北上・進撃を続け、西側をグロースドイッチュラント(大ドイツ)装甲擲弾兵師団、東側には第11装甲師団が並立して前進を続けていた。そして10日午後には攻撃開始線から25kmほど北方にあるプショール河南岸の高地にまで到達していた。しかもこの河は、独軍がクルスクへ向かう上での最後の天然の要害とされていた。即ち、ソ連軍にとってはここを渡河されると、クルスク攻略を許してしまうのと同時にヴォロネジ方面軍全体の崩壊の危機に直面することになるのであった。
そこでソ連軍はこれに対処する為、急遽、後置していた予備兵力であるステップ方面軍の第5親衛軍と第5親衛戦車軍をヴォロネジ方面軍へと送り込んだ。
その頃、ホトの第4装甲軍司令部は、ソ連軍の第1戦車軍がクルスクに向かう攻撃を阻止する為に自軍の進撃方向正面に展開してることや、複数の戦車軍団がクルスクの南に予備兵力として配置されていること、並びにイワン・ステパノヴィチ・コーネフ上級大将(後に元帥)指揮のステップ方面軍所属の第5親衛戦車軍の動向(突出部の南東後方、オストロゴジスク付近から西進の恐れあり)に関する情報を事前に得ていたが、増援部隊を阻止する目的の味方・ケンプフ軍支隊の前進が遅れていた為に、第5親衛戦車軍の進出に備えて彼らが通過する可能性の高いクルスク南部の小都市プロホロフカを先んじて奪取(特にプロホロフカ駅の占領は不可欠とされた)する目的で第2SS装甲軍団を進出させることを下命し、第48装甲軍団には第2SS装甲軍団を支援させる為に東方へと進軍先の変更を命じた。この時点でホトは、第2SS装甲軍団を用いてプロホロフカで第5親衛戦車軍の前衛部隊を一旦叩いた後に、第48装甲軍団を先鋒としてクルスクへ向けて北進する腹積もりであったとされる。
7月11日には、プロホロフカを守備していたソ連軍のヴォロネジ方面軍・第1戦車軍と第6親衛軍が、第2SS装甲軍団の攻撃を受けて撤退を開始したことで、9日の夕方にかけてプロホロフカ近辺に到着していた第5親衛戦車軍が代替部隊として反撃を始め、翌12日にはプロホロフカ周辺で後に「史上最大の戦車戦」と呼ばれる多数の戦車同士の遭遇戦が発生したのだった。
またこの時、大戦車戦が行われたプロホロフカ周辺の地域は、北西部のプショール河とクルスクとベルゴロドを結ぶ重要な鉄道路線に挟まれた比較的狭い地域であったが、その地形は(戦車戦に適した)草原地帯であった。そしてプロホロフカ占領を目指す独軍・第2SS装甲軍団所属の第1SS装甲師団と、その第2SS装甲軍団を撃破して更に第48装甲軍団の退路を遮断するのが目的のソ連軍・第5親衛戦車軍の第18と第29戦車軍団との間で激闘が繰り広げられた。
12日早朝、252.2高地から前進する第1SS装甲師団の戦車戦闘団とソ連軍の第53機械化旅団とが激突、苛烈な戦車戦が開始される。そしてこれを端緒に独軍の第1SS装甲師団の各部隊の前面進路上に、ソ連軍は叩かれても叩かれても継続して戦車部隊による飽和攻撃を繰り返し、やがて独軍は前進を停止して防御戦闘への移行を余儀なくされた。
ソ連軍に重砲兵部隊が随伴していなかったことや、プロホロフカ上空の制空権を一時的ながら独空軍が優位に制していたことなどもあって、この戦闘は夕刻には終わり、独軍が辛うじて同地を占拠した形となった。
しかし、急変した地中海・シチリア情勢の変化(7月10日の連合軍シチリア島上陸作戦開始)に対応して、13日にヒトラーは総統大本営で緊急会議を開催し、この作戦の中止を決めることになる。但し、南部戦域ではマンシュタインの具申により17日まで作戦を継続、局部的な戦闘は23日に至り終息した。
その頃、ソ連軍は大規模な反攻を7月12日にクルスク突出部の北側戦域で開始していた。8月3日にはクルスク突出部の南側でも反撃(“ルミャンツェフ”作戦)を発動、その後、独軍に占領されていたハリコフは8月23日に解放された。
こうして独軍は最終的にはプロホロフカを占領することもクルスク突出部を取り除くことも出来ず、何一つ当初の戦略的な目的を達成することは出来ずに“ツィタデレ「城塞」”作戦を終えたのだった。だが皮肉にも、ソ連赤軍に多大なる損害を与えたとして、これを賞されて第4装甲軍司令官のホトは柏葉剣付騎士十字章を受章(1943年9月15日)したのである。
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