当時の戦闘記録によると、激烈な防御戦闘を戦い抜いた第1SS装甲師団により、ソ連軍部隊は全て撃退されたとされるが、独軍の(第1SS装甲師団所属の)第7戦車中隊の隊長であったティーマンSS大尉の証言によると、「我々より10倍もの敵戦車部隊との戦闘は、これまで経験が無かった」と言う程の激戦だった。更にこの戦闘では、ソ連側の“タンクデサント”(戦車に跨って移動したり戦闘に参加する歩兵)を満載したT-34戦車の部隊の中には、(自軍の築いた)対戦車壕に前進を阻まれて行動不能になる戦車も多々あったと云う。
また13日の第1SS装甲師団の戦闘報告によると、ソ連軍の戦車192輌を撃破したと云う。こうしたソ連側の被害は、第5親衛戦車軍の司令官パーヴェル・ロトミストロフ装甲戦車兵大将(戦後に装甲戦車兵総元帥)が、ティーガーⅠ型対策(遠距離砲戦では88mm砲搭載のティーガー有利)として近距離戦闘を命じたことがひとつの原因とされ、砲塔に増加装甲を装備したIV号戦車をティーガーと誤認して接近したソ連軍戦車が、逆に独軍・IV号戦車の長砲身75mm主砲の有効射程距離内で次々に撃破された結果であったとの説もある。
従来、この戦闘に参加した戦車数は独軍が600輛、ソ連軍が900輛にも及び、両軍の損害を合わせると700輛に及ぶ大損耗戦(「史上最大の戦車戦」)だったと言われてきたが、両軍の同戦闘に参加した車両やその構成、そして実際の損害数や状況などは資料によって、または参戦した将兵の証言により食い違いがあった。
※結局、この戦いは独ソ双方の損害を併せても約250輛前後であったとするのが正しい様だが、旧来の異論では、ソ連赤軍が約300~400輛、独軍のそれは自走砲も含め約70~80輛からなんと320輛とされている。とにかく、この戦闘結果に関するデータは現在でも議論の的になっていて、その確実な算定・評価は結実していない。
最近の研究では、現実にはそれほどの多数の戦車が戦った一大戦車戦ではなかった、との見方が有力となっているが、この理由としては、長年にわたりドイツやソ連から公開された資料が不完全であったことや、1981年まで独軍SS部隊の記録が機密扱いだったことも一因とされている。
例えば同日の、第1SS装甲師団の被った損害は24輌(全損車はIV号戦車が4輌、ティーガーは1輌)と記録されているが、翌14日には稼動88輌の体制に復帰している。また第2SS装甲軍団全体の戦車損害状況も、第1SS装甲師団が既述の通り24輌で、第2SS装甲師団は16輌、第3SS装甲師団が20輌の計60輌(全損5輌、修理可能な損傷車輌55輌)とされ、過去に言われていた損害状況とは比較にならないほど小さかった様である。
ソ連側の第5親衛戦車軍の記録では、戦闘前に同軍が保有していたのはT-34が409両、T-70が188両、チャーチル歩兵戦車が31両、SU-122とSU-76合わせて48両であったが、(16日までの損害は)T-34が222輌でT-70が89輌、チャーチルが12輌、SU型も11輌が全損、とある。
またこの時、同軍は非常に多数のティーガーⅠ型重戦車を破壊したと報告しているが、実際の同戦闘へのティーガーの参加数は、第1SS装甲師団所属の第1SS戦車連隊(SS Panzer-Regiment 1)・第13中隊の僅か4輌に過ぎないとされる(異説在り)。だがこれも、冷戦崩壊前のソ連がプロパガンダとしてこの戦闘に関して随分と脚色(事実上のソ連側の勝利として)発表していた為に、誇大な情報が伝わったとされているのだ。
9月3日、ヒトラーと会見した中央軍集団司令官のクリューゲと南方軍集団司令官のマンシュタインは、クリューゲが中央軍集団の右翼がデスナ川を越えて撤退する許可を得て、またマンシュタインもクバンの橋頭堡を撤収して第6軍をミウス川の線から後退させることの了承を受けた。
9月14日、ボロネシ方面軍の部隊が南方軍集団の北翼を突破し、南西方向へ進撃してドニエプル河に向い、この部隊はチェルカッスイから約120kmも進出した。この様にソ連赤軍の進撃が続き、ヒトラーは主戦線をドニエプル河とデスナ河の西岸まで後退させることをようやく翌15日に承認する。
しかし以後のソ連軍の追撃は急であり、ドニエプル河に向けて独軍の撤退とソ連軍の進撃の競走が行われた。この競走の結果、ソ連軍はドニエプル河の西岸に小規模ながらも数か所の橋頭保を確保することに成功、これが後のキエフの解放に重要な役割を果たすことになる。
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