【古今東西名将列伝】 ヘルマン・ホト(Hermann Hoth)将軍の巻 〈3JKI07〉

その後、ホトと第4装甲軍はドニエプル河下流域で行われたソ連赤軍の攻撃に対する防衛戦を戦った。1943年9月後半から10月にかけて、ソ連軍はドニエプル河西岸で幾つかの橋頭保を確保した。その中にはキエフ北方のリュテシの橋頭保もあったが、第4装甲軍の戦力はそのほとんどが下流の第8軍の支援に振り向けられていた為に、充分な対応が出来なかった。

戦う独軍の装甲擲弾兵

11月3日には、そのリュテシの橋頭堡からニコライ・ヴァトゥーチン上級大将のヴォロネジ方面軍(1943年10月20日以降、第1ウクライナ方面軍)麾下の第38軍(N・E・チビソフ将軍指揮)が進撃を始めた為にホトは第4装甲軍から第8装甲師団と第20装甲擲弾兵師団の一部を投入したにもかかわらず、独軍陣地を突破されて6~10kmほども前進されてしまう。

そしてパーヴェル・ルイパルコ装甲戦車兵大将(後に装甲戦車兵元帥)が率いる第3親衛戦車軍が第38軍(この後、チビソフからキリル・モスカレンコ将軍指揮に変更)が突破した地域を抜けてキエフに向って進撃を開始したが、その後のキエフ防衛戦において、ホトは兵力不足により11月6日頃にはキエフをソ連軍に奪還されてしまった

この状況にヒトラーは激怒、再びキエフを奪回することを命じたが、それは不可能と抗議するホトを敗北主義者と決め付けて罷免を(11月10日に)決定したホトは、後任のエアハルト・ラウス上級大将の到着まで戦闘を指揮したが司令官解任の決定は覆らず、12月3日に正式に更迭された。

こうして歴戦のホト将軍は予備役となり、翌年の1944年4月から第7軍隷下のエルツ山地地区司令官という閑職に任じられて、以後、二度と第一線に戻ることはなく終戦を迎えたのである。


終戦後は米軍の捕虜となり、1947年からのニュルンベルク継続裁判の一部である国防軍最高司令部裁判では、「平和に対する罪」・「侵略戦争の企図」、そして上記1941年11月の命令下達の罪状(「指揮下の部隊に政治将校の即時処刑を命じた戦争犯罪と親衛隊のユダヤ人狩りに協力した人道に対する罪」)により懲役15年の有罪判決を受けた。

そしてこの有罪確定により、ホトはランツベルク刑務所にて1948年10月27日から服役していたが、1954年4月7日に釈放された。また1956年には、1941年当時の作戦状況を著した『戦車作戦』を出版している。1971年1月26日、西ドイツのニーダーザクセン州ゴスラーで死去した。

 

マンシュタインと食事を共にするホト

ホト将軍は、他の優秀な装甲部隊指揮官たちと同様に常に最前線に立ち、味方部隊を鼓舞し続け、更に適宜な戦術立案により多くの危機的な防衛戦を乗り切った。守勢にまわった東部戦線において、上官となったマンシュタインよりも本来は2年先任だったが、階級が逆転しマンシュタインの指揮下に置かれた後も、その様なことに気を腐らせることはなく己の職務に忠実に取り組み、良好な信頼関係を築いたとされる。

またホトの解任と予備役への編入を知ったマンシュタインの側も、彼の類稀な戦闘指揮能力を惜しんでヒトラーと談判し、一定期間を経た後に西部戦線において軍司令官として復帰させるという約束を取り付けたが、結局、この約束が果たされることはなかったのである‥‥。

-終-

【番外】“マンシュタインとホトの役割分担は、南方軍集団司令官のマンシュタインが担当の戦区全体の戦略を考えて決めていたが、より具体的な戦術を発案したのは軍集団の中核である第4装甲軍司令官のホトだったと伝わる。しかも、ホトの立案した作戦案をほぼそのままマンシュタインは採用していたとされる。

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