【古今東西名将列伝】 エヴァルト・フォン・クライスト(Ewald von Kleist)将軍の巻 〈3JKI07〉

今回の【古今東西名将列伝】 は、独軍の名将、エヴァルト・フォン・クライスト(Ewald von Kleist)将軍を扱う。彼はプロイセン有数の名門軍人家系の末裔であり、当初は戦車否定論者の代表格であったが、後に装甲部隊の名指揮官となった人物だ。

 

クライスト将軍

パウル・ルートヴィヒ・エヴァルト・フォン・クライスト(Paul Ludwig Ewald von Kleist)の生家であるフォン・クライスト家は、500年とも云われる歴史を有するプロイセンでも著名な名門軍人一家に生まれた。その一族からは合計34名もの将軍が生まれたとされるが、やがてエヴァルトもその中の3名の元帥の一人となる。更に同家の一門は、軍人以外に多くの政治家や外交官などを輩出したのだった。

その彼が誕生したのは1881年8月8日、プロイセン王国のライン州コブレンツ県ヴェッツラー郡のブラウンフェルス(現在はドイツ連邦共和国のヘッセン州内)においてであった。父のクリストフ・フーゴ・フォン・クライストは教育者(哲学博士)であり、母はその妻エリーザベト・グライであった。

この様にエヴァルトの父は軍人ではなかったが、家系の歴史を重んじた彼はその家風にのっとり職業軍人を目指して、1900年3月13日に士官候補としてプロイセン王立第3野砲連隊に配属され、同年10月18日に正式に士官候補生となった。

翌年(1901年)8月18日に砲兵少尉に任官。1909年(1907年とも)にハノーファー陸軍乗馬学校へ入校し1年間学ぶ。その間、1910年1月27日に中尉に昇進。1910年10月1日にはベルリンの陸軍(軍事)学校(クリークス・ショーラー、Kriegsschule)へと進学、3年後の1913年7月22日には同校を卒業して1912年12月より所属していた第14軽騎兵連隊に復帰、その後も幾つかの軽騎兵連隊に勤務し前途有望な騎兵将校に育っていく。

「タンネンベルクの戦い」でのヒンデンブルグ将軍(ヒューゴー・ヴォーゲル 作)

1914年3月22日、騎兵大尉となった彼は第1軽騎兵(ユサール、Husar)連隊へと転属したが、ここで第1次世界大戦が勃発し「タンネンベルクの戦い」に騎兵大隊長として従軍、第85や86等の予備義勇兵(ラントヴェーア、Landwehr)師団の臨時幕僚などを経験した後、1916年に第17(予備)軍団の臨時幕僚(兵站参謀)となった。

その後、陸軍最高司令部付大尉を経て翌1917年には近衛騎兵師団の作戦参謀に着任し、1918年初頭にはヴァーン参謀課程を履修し短期間だがドイツ皇太子軍集団に配属される。

同年(1918年)にロシアとの休戦・講和が成るとクライストは部隊と共に西部戦線へと転進、最後は第7軍団作戦参謀として終戦まで戦った。

※「タンネンベルクの戦い(Schlacht bei Tannenberg)」は、第一次世界大戦が勃発した1914年に起きたドイツ帝国とロシア帝国間の戦いである。1914年8月17日から9月2日にかけて、ドイツ軍の第8軍(7個師団と騎兵1個師団で編成)とロシア第1軍(6個師団半と騎兵5個師団で編成)・第2軍(10個師団と騎兵3個師団で編成)によって、ドイツ領内の東プロイセン・タンネンベルク周辺で行われた戦闘である。この結果、ロシア第2軍は東プロイセンにおいて包囲殲滅され、残存のロシア第1軍はロシア領内への撤退を余儀なくされた。

※クライストは、マクデブルク駐屯時に後に大統領となるパウル・フォン・ヒンデンブルクと「ちょっとした知り合い」となったと語り、第一次大戦後はヒンデンブルクと同じハノーファーに住んだことから「もっと知るようになった」と述べている。

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