【古今東西名将列伝】 エヴァルト・フォン・クライスト(Ewald von Kleist)将軍の巻 〈3JKI07〉

終戦直後、右派義勇軍への参加を経てヴァイマル共和国の国軍(ライヒス・ヴェーア、Reichswehr)に採用され、1922年2月1日には少佐に昇進して第13山岳連隊所属の騎兵大隊長を務め、1923年から1928年にかけてハノーファーの騎兵学校の教官(参謀課程教官・後半は幕僚 兼 戦術教官)を務める。

※右派義勇軍(フライコール、Freikorps)とは、第一次世界大戦敗戦後の1918年以降の数年間、敗戦国ドイツ領内に乱立した復員兵による民兵組織のこと。通常の社会生活に馴染めない旧軍人たちの受け皿となった準軍事組織であり、その多くがドイツ革命や共産主義者の武力鎮圧・排除活動に従事した。

※またこの時期(1925年)に、大統領選挙に出馬しようとしていたヒンデンブルクを訪問し、「政治家になれば、政治家としても人間としても面目を失うかもしれない」と出馬自粛を進言したとされている。

1926年12月1日に中佐に進級していた彼は、1928年3月にブレスラウの第2騎兵師団の参謀となるが、わずか1ヶ月の後に第4歩兵連隊第2大隊長へ異動、その後、1929年7月から1931年2月にかけて第2騎兵師団参謀長を務めた。この間、1929年10月1日には大佐へと昇進、第2騎兵師団参謀長の後はベルリンの第3(歩兵)師団の参謀長となる。

以降、ポツダムの第9歩兵連隊長を間に挟んで、1932年1月1日に名誉少将待遇を得て翌月(2月)1日にはゲルト・フォン・ルントシュテット将軍の後任としてブレスラウの第2騎兵師団長となり、同年10月1日、少将となった。

1933年10月1日に中将となった彼は、同日(10月1日)から翌1934年10月1日までの1年間、ブレスラウ軍管区指揮官を務め、更に1935年5月1日までブレスラウ陸軍支所長となった。その後、ブレスラウの第8軍管区司令官に就任、1935年6月から1938年2月までは第8軍団長 兼 第8軍管区司令官を務めた。そして1936年8月1日に騎兵大将の座に昇ったが、1938年2月4日、“ブロンベルク罷免事件に連座する形で一旦は陸軍を退役(但し、第8騎兵連隊の連隊服着用資格を授与される)したのだった。

※“ブロンベルク罷免事件”とは、1938年に発生したドイツ国防軍幹部たちの更迭事件のこと。当時、国防相であったヴェルナー・フォン・ブロンベルク元帥と陸軍総司令官ヴェルナー・フォン・フリッチュ上級大将に関するスキャンダル事件が元で両者が相継いで罷免された。ヒトラー率いるナチス党の過激な外交政策に反感を持つドイツ陸軍上層部の守旧派将軍たちを一掃することが目的の謀略事件であったとされる。

※後にクライストはこの時の退役の理由を、ルター派教会に属する自分としては「教会その他の宗教問題に対するナチ党の姿勢に賛同できなかったこと」と「宗教を擁護しすぎたこと」が原因であると語っている。また自身が発令した年少兵に対する礼拝への参加命令や、それを撤回せよという1937年の国防軍最高司令部 (OKW)からの指令を拒否した事を例に挙げているが、但し真相は、宗教的立場云々よりも単純に陸軍長老派の一人で保守的な将軍としてナチスから排除されたと考えるべきであろう。また注目されることには、OKW総長のヴィルヘルム・カイテル将軍(最終階級は元帥)について、「(自身の退役は)もちろんカイテルの責任ではない。彼は(ナチス)党から圧力をかけられてそう命じたのだ」と一見擁護しているが、そこには何らかの皮肉の意が隠されているのかも知れない。

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