【古今東西名将列伝】 エヴァルト・フォン・クライスト(Ewald von Kleist)将軍の巻 〈3JKI07〉

しかしクライストは1939年の第二次世界大戦勃発により現役復帰を果たし、ルントシュテットの南部方面軍(南方軍集団)麾下の第14軍(ヴィルヘルム・リスト将軍指揮)に所属する第22(自動車化)軍団を指揮して同年9月1日に開始されたポーランド侵攻戦(作戦名称「白の場合(Fall Weiß)」)に参加した。彼の軍団はポーランド南方で長駆、機動戦を展開し、ポーランド軍の防衛線の突破に成功したのだった。

装甲車両にペイントされたクライスト装甲集団の部隊識別表示

翌1940年5月、彼は合計5個の装甲師団を有する所謂“クライスト装甲集団”を率いて、独軍の先鋒として西方電撃戦(作戦名称「黄の場合(Fall Gelb)」:作戦第1フェイズのベネルクス三国・フランス北部侵攻作戦、及び「赤の場合(Fall Rot)」:作戦第2フェイズのフランス本国侵攻作戦)に従軍することになる。

この独軍初の戦略規模の装甲部隊には、グデーリアンの第19装甲軍団とゲオルク・ハンス・ラインハルト中将(最終階級は上級大将)指揮の第41(自動車化)軍団、そしてグスタフ・フォン・ビータスハイム歩兵大将の第14軍団が所属していた。だが本来が騎兵科の出身と言うことから騎兵信奉者であったクライストは、騎兵総監ヴィルヘルム・クノッヘンハウアー将軍と共にグデーリアンの唱える戦車戦術理論に真っ向から反対していた。

そこで作戦開始当初、ひたすら攻勢スピードを重視するグデーリアンの用兵思想を理解出来ずに、度々、第19装甲軍団に対して進撃停止命令を発したが、5月17日、遂にこれに従わないグデーリアンと直接会合して激烈な口論を繰り広げた。

実際のところ、クライストの命令はグデーリアンの革新的な戦術、即ち敵中奥深くへと急速な進撃を行って敵の指揮中枢を麻痺させ、その反撃体制を粉砕して敵軍全体を分断包囲した後に各個撃破・殲滅しようとする一大機動作戦を台無しにする可能性があったのだった‥‥。

この時、激昂したグデーリアンは辞任を申し出るが、上官であるA軍集団司令官ルントシュテットや第12軍司令官のリストの仲裁で二人は一時的に和解し、その後、グデーリアンは暫定的な行動の裁量権を得て再び快進撃を開始した。

そして以降の対仏戦での快勝により、その驚異的な戦果を目にしたクライストは戦車を中心とした機動戦術を理解し自らの旧来型で保守的な用兵思想が時代遅れであることを悟り、戦車を中心とした装甲部隊の有用性に気付いたのであった。またその後、彼は短期間でこうした新たな戦車戦術理論を修得・マスターし、自ら一流の装甲部隊指揮官の道を歩んでいくのであった。

尚、この対仏・西方電撃戦での戦功によりクライストは、1940年7月19日に上級大将に昇進して騎士鉄十字章を受章した。

※対仏戦後にクライストは、「敢えて言わせてもらえば、フランスで早々と勝利出来たのは私の軍団によるところが大きい」と述べる一方で、ダンケルク戦でのヒトラーによる装甲部隊の進撃停止命令については「危険すぎると考えたのだ」としながらも「本当にばかげていた」と語ったとされる。彼の歯に衣着せぬ物言いとやや傲慢ともとられる態度や自信家の側面がよく表れた発言であろうが、筆者はその横柄な態度の裏腹には実は自らの不安や自信の無さ・弱さを隠そうとして、敢えて一種の天邪鬼的な言動を選ぶ姿が見て取れる様な気がするのだが‥‥。

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