【古今東西名将列伝】 エヴァルト・フォン・クライスト(Ewald von Kleist)将軍の巻 〈3JKI07〉

翌1941年、ヴィルヘルム・リスト元帥の第12軍の一部として同じく第1装甲集団を指揮してバルカン半島の戦いに参加。4月からはユーゴスラヴィア及びギリシャへの侵攻作戦に加わる。作戦自体は短期間で終了したが、この為にクライストの第1装甲集団は引き続いて開始された「バルバロッサ作戦」(ソ連侵攻作戦)において予定の出撃地点への到着が遅れてしまった。

※当初「バルバロッサ作戦」は5月中旬の開始の予定だったが、不安定化したバルカン半島に介入する為に6月下旬へ延期された。この1ヵ月の遅れと例年より早かった冬将軍の到来が、後の独軍のモスクワ攻略を困難とした一因になったとの見解もあるが、「バルバロッサ作戦」の発動が5月15日から6月22日まで延期された理由は、単に独軍の侵攻準備が整っていなかったことに加えて前年の冬が多雨の為に晩春まで河川が氾濫していたから等であり、即ち対ソ戦への影響はほとんどなかった、との主張も根強い。

こうして戦略的奇襲に失敗した第1装甲集団だったが、「バルバロッサ作戦」発動時には南方軍集団(司令官ゲルト・フォン・ルントシュテット元帥)に所属し、1941年6月22日の作戦開始時には第3装甲軍団・第14軍団・第48(自動車化)軍団・第2対空砲軍団などから成り、総勢で戦車800両近くを保有していた。

※厳密な意味での各軍団の呼称については、戦車を中心とした装甲車両の比重が極めて高い場合を“装甲軍団”とし、徒歩や馬匹中心の従来型部隊を“軍団”、それが自動車化輸送される割合が高い場合は“自動車化軍団”とするが、「バルバロッサ作戦」開始時点では第3や第48軍団等に関しても、この時点では未だ後の装甲軍団と呼ばれるレベルではなかったとする説もある。

だが、東部戦線南西部の戦域を担当しソ連軍の国境防御線を突破した第1装甲集団は、他の独軍装甲部隊と比べて多くのソ連軍戦車と対峙しなければならなかった。それはソ連軍が戦前から独軍の主要攻撃目標はウクライナ地方であると考え、この地域を管轄していた南西正面軍(M・P・キルポノス上級大将指揮)に非常に多数の(T-34やKV-1を含む)機械化部隊を配していたからである。

その為、独軍・南方軍集団は緒戦において苦戦を強いられたが、クライスト率いる第1装甲集団はリヴィウ=ロヴォノ間へと進撃しキエフへ続く鉄道網を寸断し、開戦初頭においてソ連軍戦車2,000輛以上(諸説あり、1,000輛程度とも)を相手に戦ったとされる有名な「ブロディの戦い」の激戦を制して、7月1日にはブロディの町の占領に成功した。

前戦を視察中のクライスト将軍(左端)

こうして、機甲兵力で優位にあった同地域のソ連軍だが、兵站・通信網の混乱に加えて制空権を失っていた為に、各部隊の合同した攻撃が出来ずに敗走したとされる。その後、第1装甲集団は8月になるとウクライナの都市ウーマニ近郊のブーフ川東岸で行われた「ウーマニの戦い」では第17軍(カール=ハインリヒ・フォン・シュテュルプナーゲル歩兵大将指揮)と共にソ連軍の3個軍(第6・第12・第18軍)を包囲撃破、10万人を捕虜とした。

更に「キエフの戦い(キエフ会戦)ではグデーリアン率いる第2装甲集団の南進に呼応してドニエプル河畔のクレメンチュグから北上し、南北挟撃を実施(9月16日にはロホヴィッツ付近で両装甲集団が連結・連絡)してソ連軍の退路を断ち敵大部隊の包囲殲滅に成功、ソ連軍の800輛以上の戦車と敵兵66万人を捕虜を得るという大勝利を収めたのである。

※上記時点での第1装甲集団の部隊組成に関しては細かい出入り・変更があるが、装甲師団は第9・第16の両師団、自動車化歩兵師団には第16や第25師団など、加えてSSの未だ装甲擲弾兵師団の装備・編成とはなっていない段階の、“LSSAH”(第1SS自動車化師団)や“ヴィーキング”(第5SS自動車化師団)などを一時的に有していたが、他の時期においても、部隊の戦闘序列(編成)についてはわずか1週間程度で異動する場合も含めて激しい戦闘の最中、臨時配属や所属・指揮命令系統の変更が頻繁に行われており、多くの戦史・史料に置いて異同が見られる。但しこれはW.W.Ⅱの独軍に限っての現象ではない。

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