【古今東西名将列伝】 エヴァルト・フォン・クライスト(Ewald von Kleist)将軍の巻 〈3JKI07〉

こうしてA軍集団は第1装甲軍を先鋒に進撃を開始、再び7月25日にはロストフ・ナ・ドヌに到達、その後、マイコープ、クラスノダールとクバーニ川周辺地域での攻勢に一旦は成功したかに見えた。しかし1942年9月10日にヒトラーがA軍集団のリスト司令官を解任して以降、クライストが事実上のA軍集団の指揮官役に任じられた時期においては、彼が率いるA軍集団はソ連最大の油田地帯バクーとロストフを結ぶ鉄道の要衝モズドクをかろうじて占拠していたが、ソ連軍の強力な反撃を受けて一進一退の攻防を繰り返していた。

こうした戦局のもと、ヒトラーは暫くは自らA軍集団を管理・監督(上記の通りクライストが現場指揮)していたが、同年11月22日にはクライストを正式に司令官に任命し、第1装甲軍はマッケンゼン将軍が後任司令官となった。ちなみにスターリングラード救出戦で一部の装甲部隊をドン軍集団へ移管した(クライストの手を離れた)第1装甲軍は、1943年になると正式にマンシュタインのドン軍集団に所属し、戦線北面からソ連軍へ反撃を加える為に第4装甲軍と共に北進、1943年3月の「第3次ハリコフ攻防戦」(後述)の勝利に貢献する。

 

東部戦線の独軍歩兵

さて助攻作戦であるB軍集団のスターリングラード攻略戦において同年(1942年)12月にはソ連軍が大反攻に転じ、連携・連続した第2次攻勢において交通の要衝ロストフ周辺が封鎖される危機が生じると、後背の補給路の断絶を恐れたクライストは急遽指揮下の各独軍部隊の撤退を促しロストフより西側への撤収に成功するが、こうして結局は独軍のコーカサス地方への進撃は頓挫してしまった。だが、この困難な退却戦での采配がヒトラーからも評価され、その功績によりクライストは1943年2月1日に元帥に昇進した。

しかしその後も、春の雪解け期が来る前に可能な限りの領土回復を目指すソ連軍は、引き続きの攻勢を継続し、1943年2月18日にハリコフを奪還、独軍の南方軍集団司令部も危機に瀕した。

ところがこの時点で南方軍集団司令官となっていたマンシュタイン元帥は、ソ連軍も補給線が伸びきり攻勢限界点に達していると分析し、麾下のA軍集団・残存B軍集団、並びに増援のSS装甲軍団を展開して、数日後には一気に反撃に転じたのだった。

そして、この「第3次ハリコフ攻防戦」と呼ばれる独軍攻勢に対して、進撃続きで疲弊していたソ連軍は総崩れとなり次々と敗走、3月14日には再々度、ハリコフが独軍の占領下に戻った。またこの勝利でクルスクを中心とした突出部が形成され、7月の「クルスクの戦い(クルスク大戦車戦)」へと繋がっていくのであるが、そのクルスク戦での敗戦にも近い不充分な戦果により、独軍にとってはその後のソ連軍の連続した大攻勢を前に常に退却戦を戦わざるを得ない状況が続いていく。

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