『メンフィス・ベル』(Memphis Belle/1990)は、イギリスからドイツへの爆撃任務に就いたB-17とその搭乗員達を取り巻く人間ドラマを描いた不朽の名作。監督はマイケル・ケイトン=ジョーンズ(Michael Caton-Jones)、主人公の機長デニス・ディアボーン大尉にはマシュー・モディーン(Matthew Modine)、副操縦士のルーク・シンクレア中尉をテイト・ドノヴァン(Tate Donovan)、航空士のフィル・ローエンタール中尉役はダニエル・スウィーニー(Daniel Sweeney)、爆撃手のヴァル・コズロウスキー中尉にはビリー・ゼイン(Billy Zane)、航空機関士で上部旋回銃座の銃手 ヴァージ・フージスティガー二等軍曹をリード・ダイアモンド(Reed Diamond)、下部旋回銃座の銃手のラスカル・ムーア二等軍曹をショーン・アスティン(Sean Astin)、無線士 ダニー・デイリー二等軍曹にエリック・ストルツ(Eric Stoltz)、右側側面の銃手ユージーン・マクヴェイ二等軍曹にコートニー・ゲインズ(Courtney Gains)、左側側面の銃手ジャック・ボッシ三等軍曹をニール・ジントリ(Neil Giuntoli)、後尾銃座 クレイ・バズビー二等軍曹役は歌手でピアニストのハリー・コニック・ジュニア(Harry Connick Jr.)、基地司令のクレイグ・ハリマン大佐にデヴィッド・ストラザーン(David Strathairn)、広報官のブルース・デリンジャー中佐をジョン・リスゴー(John Lithgow)が演じました。尚、この映画の配給元はワーナー・ブラザースですが、製作国はイギリスとなっています。
※広報官のブルース・デリンジャー中佐の階級を、大佐としている資料が多い様です。日本国内で販売されているDVD等での字幕においても大佐と表記されていますが、実際の映像を観ると彼の階級章は銀色のオークの葉、つまり階級は Lieutenant Colonel(LTC)となるので、日本語では中佐と訳すのが正しいことになります。但し、通常の会話では(劇中でも)中佐も大佐と同様に単に“カーネル(Colonel)”と呼ばれることがある上に、モンテ・メリック(Monte Merrick)のノヴェライズ小説『メンフィス・ベル(Memphis Belle)』の日本語訳書(二見書房刊)でも大佐となっていますので、ここら辺りが誤認の源泉かも知れません。
※当時のアメリカ軍の爆撃機搭乗員の階級が入隊年次の割に高く、皆、軍曹以上であった事は、ものの本によれば捕虜になった場合の待遇を考慮した結果であった様です。
尚、この映画は、第二次世界大戦におけるアメリカ陸軍航空部隊のB-17爆撃機“メンフィス・ベル”号の10人の若き搭乗員達が命をかけて25回目の出撃に挑んだ実話に基づく青春群像劇ですが、ごく普通の青年達が戦禍の中で爆撃機の搭乗員として任務を遂行していく上で起こる数々の苦難や危険を通して、勇気ある行動と互いへの友情、心の葛藤に苛まれる姿や死への恐怖に打ち勝つ場面などが描かれており、まさしく極限状態に置かれた青年たちの成長物語と云えるでしょう。またこの作品は、ウィリアム・ワイラー(William Wyler)監督のドキュメンタリー映画『メンフィス・ベル:大空の要塞の物語』を参考として作られたとも云われていますが、但しストーリーの内容・展開に関しては、現実の“メンフィス・ベル”号の逸話とは異なる点が多くあるとされています。
※ウィリアム・ワイラーは、アカデミー監督賞を3回受賞したハリウッド黄金期に活躍した名監督(代表作には『ミニヴァー夫人』・『我等の生涯の最良の年』・『ローマの休日』・『大いなる西部』・『ベン・ハー』など多数)ですが、実際の“メンフィス・ベル”号を扱った彼のドキュメンタリー映画の原題は『Memphis Belle: A Story of a Flying Fortress』と云い、当時、陸軍航空部隊 第1映画部隊(First Motion Picture Unit, FMPU)に所属していたワイラーが、英国に派遣されて監督として記録映画撮影隊を率いて爆撃機に搭乗して“メンフィス・ベル”号が所属する第91爆撃航空群の出撃に同行、危険を冒して同機の最後の出撃の一部始終や部隊の爆撃・空中戦のシーンを撮影して製作しました。
※ウィリアム・ワイラーの娘であるキャサリン・ワイラー(Catherine Wyler)が、デビッド・パットナム(David Puttnam)と共同で『メンフィス・ベル』(Memphis Belle/1990)を制作しました。また本映画のDVD等に付属の資料によると、この映画におけるB-17実機の操縦に関しては、キャサリン・ワイラーの叔父にあたるデビッド・タリチェット(David Tarichetto)氏が関与していたとされ、映画製作当時、彼は飛行可能なB-17動態保存機を所有し航空ショーなどで披露していたと云いますから、ワイラーの親族は何かとB-17に関わりがあった様ですね。
さて、第二次世界大戦中、アメリカ陸軍航空部隊(航空軍)の中で 駐英の第8空軍などでは通算25回の出撃を達成した爆撃機の搭乗員は母国へ凱旋帰国出来るという内規があり(後に達成回数の基準はより厳しくなったそうですが)、陸軍航空部隊ではこの25回達成の様子を戦意高揚の広報活動に利用する目的で映画化しようと試みます。
しかし撮影の準備中に、当初、25回達成の候補であった第303爆撃航空群 第358爆撃飛行隊のB-17“ヘルズ・エンジェルス”号(シリアル・ナンバー41-24577)が25回の出撃を達成してしまったことから、急遽、ピンチヒッターとして“メンフィス・ベル”号(第91爆撃航空群 第324爆撃飛行隊所属 シリアル・ナンバー41-24485)の25回目の出撃の様子が撮影に使われることになったのでした。
そして無事に任務を成功させた実際の“メンフィス・ベル”号とその10人の搭乗員は、全員でアメリカ本土へと帰国し、1943年6月16日の首都ワシントンD.C.でのイベントを皮切りに、全米30か所を巡る戦時国債引き受け募集キャンペーンを行いました。こうして“メンフィス・ベル”号は、アメリカで最も有名なB-17となったのです。
※“メンフィス・ベル”号が25回の出撃を達成したのは、1943年5月17日のことです。そして搭乗員達は同年6月6日に凱旋帰国を果たし、戦意高揚と戦時国債募集の促進の為に全米中を巡りました。
※“メンフィス・ベル(Memphis Belle)”号とは、シリアル・ナンバー41-24485のB-17爆撃機の愛称で、1944年4月5日公開された戦意高揚の為の戦争ドキュメンタリー映画『メンフィス・ベル』で扱われたB-17のことで、型式はF型でした。またこの“メンフィス・ベル”号の名前の由来は、機長のロバート・モーガン大尉のガールフレンドであったマーガレット・ポーク嬢の出身地メンフィスと、副操縦士のジェームズ・ヴァーニス大尉と連れ立って観に行った映画『レディ・フォー・ア・ナイト』で、ジョン・ウェイン演じる主人公が所有していた船“メンフィス・ベル”号に因んだとされています。尚、同機のノーズアートは、当時流行したカレンダーのマスコットガールであったペティガールズが描かれ、機首右側には赤い水着、左側は青い水着がペイントされていたと云い、第91爆撃航空群の隊員トニー・スターシャが描画したと伝わります。
※実際の“メンフィス・ベル”号(アメリカ陸軍航空部隊の登録番号は41-24485)は、ボーイング社シアトル工場で1942年7月2日に製造された製造番号3470の機体です。同年7月15日にアメリカ陸軍航空部隊に引き渡され、1942年9月に在英の第8空軍配下の第91爆撃航空群に配属されました。9月30日に対ドイツ戦に従事する為に英国へと送られ、10月14日にはイングランドのバッシングボーン空軍基地に移動し、第324爆撃飛行隊の所属機として出撃待機状態になります。コールサインは、飛行隊の割り当て符牒“DF”に機体固有記号の“A”を組合わせた“DF-A(デルタ・フォックストロット・アルファ)”でした。
尚、1990年製作のこの映画においては実機のB-17が複数機撮影に用いられていますが、この年代に撮影された実機が劇中で鮮明なカラー映像として姿を見せているのは素晴らしいことであり、実機の使用により“メンフィス・ベル”号をはじめとして登場する爆撃機の姿が皆とても生き生きとして美しく、後年のCGを駆使したものとは異なり実物ならではの迫力や臨場感が充分に感じられると思います。
ちなみに、この映画で“メンフィス・ベル”号として使用されたB-17は、英国のダクスフォード帝国戦争博物館に展示されていたB-17 G型の“サリーB”号でした。そこで本来のB-17 F型には装備されていない機首下部の機銃座を取り外し、更に上部銃塔と尾部銃座をフレームの多いF型の物に換装して撮影しています。また、他に2機のB-17 G型がアメリカ(カリフォルニア州アナハイム)から移送されて編隊撮影などに使用された模様です。
更にB-17以外にドイツ空軍側の戦闘機メッサーシュミットBf-109が3機ほど、この映画の撮影には参加しており、これは当時、全世界で4機しか飛行可能な Bf-109が存在していなかったことを考慮すると、画期的な事でした。
またこの映画では、イギリスのリンカンシャーのビルブルックで基地飛行場などの場面に関するロケを行い、その後にハリウッドのパインウッドスタジオで機内シーンを撮影しました。そこではボーイング社の保有していたB-17爆撃機の実物設計図を基にして製作した金属製の実物大機体を用いて撮影を実施しており、これが臨場感溢れる迫真の映像に繋がりました。
さて現実の“メンフィス・ベル”号は、終戦後、退役してスクラップとなる運命が待ち受けていましたが、その名の由来でもあるテネシー州のメンフィス市が350ドルで同機を買い取り、市内各所で展示した後、1980年代までメンフィス空港に隣接する博物館で展示していました。
しかし野外での展示だったことや頻繁に風雨に晒されたことで機体の劣化が進行し、部品の盗難などといった事も加わり、損傷が激しい状態となってしまったのです。
そこでオハイオ州デイトンにあるアメリカ空軍博物館がこの機体を引き取って収蔵することとなり、2005年以降、10年計画で機体のレストア作業を行うことになりました。尚、レストア作業は出来る限りオリジナルの部品を用い、失われた部品も他の機体で使われていたオリジナルを活用して行われました。多くの技術者やボランティアがこの作業に従事し、そして2018年3月14日には作業が終了しその姿が一般に公開されました。
こうしてレストア作業を終えた“メンフィス・ベル”号は、2018年5月17日からアメリカ空軍博物館の“第二次世界大戦ギャラリー”で恒久展示されることになりました。
※実際に“メンフィス・ベル”号の機長だったロバート・ナイト・モーガン(Robert K.Morgan)氏(B-17の後、B-29にも搭乗。1965年に大佐で退役、2004年5月15日に死去)に因んだ『MORGAN MEMPHIS BELLE』ブランドでは、フライトジャケット他を多数リリースしており、A-2やB-3/B-6は勿論、海軍のG-1やM-65フィールドジャケットなども製品化されています。