『赤毛のアン』翻訳者、村岡花子さんの生涯。 〈42JKI10〉

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アンの家 グリン・ゲイブルズ

NHK連続テレビ小説『花子とアンが始まりました。主演の安東はな/村岡花子には、売れっ子若手個性派、かわい過ぎる小悪魔女優?? の吉高由里子さんが扮しています。

この作品は、『赤毛のアン』の翻訳者、村岡花子さんの児童文学にかけた生涯を描くものですが、劇中では、実際の村岡さんの波乱の人生に加えて、『赤毛のアン』の作中の出来事をモチーフとしたお話が、随所で繰り広げられるそうです・・・。

 

そんな、明治・大正・昭和にわたり震災や戦争を乗り越えて、子供たちに夢と希望を届けてきた翻訳家の村岡花子さんについて、調べてみました。

生まれ、幼年期

村岡花子さんは、明治から昭和にかけて活躍された翻訳家・児童文学者です。英米の児童文学の翻訳で有名ですが、特にカナダの作家、ルーシー・モード・モンゴメリ(Lucy Maud Montgomery)の『赤毛のアン』シリーズや、エレナ・ポーター(Eleanor Porter)、ルイーザ・メイ・オルコット(Louisa May Alcott)の作品などの翻訳を手がけました。
明治26年(1893年)6月21日に、村岡花子(旧姓/本名:安中はな)さんは山梨県甲府市で、安中(あんなか)逸平・てつ夫妻の長女として生まれました。

父の逸平さんは熱心なクリスチャンであり、その影響で、はなさんも2歳の時に洗礼を受けています。その後、明治31年(1898年)、一家は上京し南品川で葉茶屋を始めます。

上京後も、家族の生活は困窮といってもよいものでしたが、逸平さんは教育の可能性と機会均等を自らの信条とし、わが娘、はなの才能を信じて八方手を尽くした結果、1903年(明治36年)、10歳のはなさんを東洋英和女学校に給費生として編入学させることができました。

入学、女学校時代

東洋英和女学校に寄宿生として入学した花子さんは、麻布の孤児院での奉仕活動が義務付けられたり、また成績如何(いかん)では即退学となる、という給費生の待遇でした。

またカナダ人宣教師が設立した女学校に入学したにも関わらず、外国語の素養がまったくなかった花子さんですが、猛勉強で英語をマスターしていきます。

寄宿生として外国人教師たちと生活をともにした花子さんは、英語のみならず、西欧人のものの考え方や生活習慣も身に付けることになりました。

その後、同級生の柳原白蓮さんの紹介で佐佐木信綱先生から万葉集などの日本の古典文学を学ぶことになりました。そこで、花子さんは女学校の先輩でアイルランド文学の翻訳者で歌人の松村みね子(片山廣子)と知り合い、彼女の勧めで童話の執筆を開始しました。また丁度この頃から、ペンネームの「安中花子」を使い始めます。

この学生時代には、花子さんは奉仕活動を通して日本基督教婦人矯風会の機関誌『婦人新報』の編集に関わり、『婦人新報』は花子さんの編集により、童話や短歌、随想、海外小説の翻訳などを掲載するようになりました。 

卒業後、社会人として

大正2年(1913年)、花子さんは20歳で東洋英和女学校高等科を卒業しましたが、学校長の配慮で、その後1年間は寄宿舎での生活を続け、婦人矯風会の仕事と英文学の研究を続けました。

翌年の大正3年(1914年)に、英語教師として山梨英和女学校に赴任しました。同年には、歌集『さくら貝』を刊行しています。また、花子さんは矯風会の仕事も続けており、女性の社会進出を応援していた実業家の広岡浅子さんとも知り合いました。キリスト教の夏季講座では、市川房枝さんとも出会ったそうです。

山梨英和女学校の教え子たちとの交流を通じて、彼女たち少女向けの、人生の指針、成長の糧となるような読み物が、欧米と比較して我が国には極めて少ないことを痛感したのも、この頃のようです。

大正6年(1917年)には東京に戻り、銀座にあるキリスト教出版社の教文館で、女性向け・子供向け雑誌の編集者として勤務しました。

花子さんは大正8年(1919年)3月から、築地の基督教興文協会の編集者となりました。彼女の英語力が役立ち、ミッション・スクールの教材や日曜学校の生徒の読み物など、たくさんの翻訳仕事の依頼がありました。

結婚と夫、村岡儆三

基督教興文協会の仕事で花子さんは、横浜で聖書を初めとするキリスト教関係の書籍の印刷・製本を営む福音印刷合資会社の村岡儆三さんと知り合い、大正8年(1919年)に結婚します。

花子さんと知り合った当時、儆三さんは既婚者でしたが、病気が原因で奥様を離縁したようです。

花子さんと儆三さんは、築地教会で結婚式を挙げ、大森に新居を構えました。大正9年(1920年)には、長男の道雄さんが誕生しています。

関東大震災と村岡家

大正12年(1923年)9月1日、関東大震災が発生します。震災により会社も兄弟一家も儆三さんは失うことになりました。

福音印刷の社屋は倒壊し、多くの社員が焼死しました。儆三さんの弟の斎(ひとし)さんや、儆三さんと先妻の幸さんの息子さんも亡くなりました。

再建のためのお金も失い途方に暮れる儆三さんを、花子さんは、翻訳小説を『婦人新報』に寄稿したり、書き起こしの童話を執筆して、健気に支えていきました。

しかし大正15年(1926年)9月1日に、長男の道雄さんが6歳の誕生日を目前にして、疫痢が原因でこの世を去りました。この時の花子さんのショックはあまりにも大きかったようです。しばらくは、何事も手につかなかった程でした。

決意とその後

長男の道雄さんを失ったことですっかり悲嘆に暮れて、気力を無くしてしまった花子さんでしたが、やがて、マーク・トウェインの『ザ・プリンス・アンド・ザ・ポーパー(The Prince and The Pauper)邦題:王子と乞食』を読みます。

そして彼女は、神が定めた運命に従い我が子は亡くしたが、日本中の少年少女のために、上質の児童文学を数多く翻訳しようと思い、このことを機に本格的に英米児童文学の翻訳家となる決意を固めたのでした。尚、『王子と乞食』はその翌年、平凡社から刊行されました。

昭和5年(1930年)に、花子さんは儆三さんと協力して設立した青蘭社から創刊した機関誌『家庭』(後に『青蘭』と改題)に、エレナ・ポーターの『スウ姉さん(長姉物語)』の連載を開始しました。

更に、昭和7年(1932年)6月1日からは、夕方のラジオ番組『子供の時間』で、短いニュースコーナーの『子供の新聞』のパーソナリティーを担当することになります。このコーナーは評判がよく、花子さんは「ラジオのおばさん」として全国的に人気を博し、親しまれていきました。

忍び寄る戦争の足音

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(C)赤毛のアン記念館 村岡花子文庫

昭和14年(1939年)、ドイツがポーランドに侵攻し、いよいよ第2次世界大戦が始まります。翌年には、米英と敵対した日独伊三国軍事同盟が締結され、英語は敵国語とみされて蔑視されました。英米児童文学の翻訳者である花子さん一家も周りの人々から「国賊」として弾劾の対象とされてしまいます。また、日米英の関係の悪化により、米国や英連邦出身の人々は帰国を始めます。

昭和14年(1939年)には、35年間の長きにわたり日本で教職に就いてきたカナダ人宣教師のミス・ショーが、ついに帰国することになります。ショーさんと花子さんは、長年の友人であり教文館での同僚でもありました。旅立ちの日、見送りに来た花子さんに、「友情の記念」として『アン・オブ・グリン・ゲイブルス』の原書が手渡されます。ショーさんは「いつかまたきっと、平和が訪れます。その時、この本をあなたの手で、日本の少女たちに紹介してください!」と言いました。

昭和16年(1941年)12月8日、とうとう日本は米国のハワイの真珠湾を奇襲して、米英(蘭中)と全面戦争に突入しましたが、花子さんは、これを機に『子供の新聞』への出演を中止しました。既に、憲兵や特別高等警察の圧力で番組の継続は事実上困難な状態でした。

戦争中、病気のために体調を崩していた花子さんですが、『アン・オブ・グリン・ゲイブルス』の翻訳に取り掛かります。彼女は、空襲に備えた灯火管制のために、明かりの灯せない暗い部屋で『アン・オブ・グリン・ゲイブルス』の翻訳をコツコツと続けました。空襲の被害は、花子さんの自宅の周囲、多くの地域に及びましたが、幸いなことに花子さんの家は焼け残り、終戦を迎えました。

そしてなんと、『アン・オブ・グリン・ゲイブルス』の翻訳は完成していたのです。 

終戦と『赤毛のアン』 のデビュー

終戦の翌年、昭和21年(1946年)正月早々には、花子さんが子供向けのラジオ番組に出演しました。戦前の花子さんのラジオ放送を覚えていた視聴者からは、その語り口を懐かしむ大反響が巻き起こりました。これを切っ掛けに、花子さんが、戦前に著した童話や翻訳作品の復刻再販も開始されました。

また懐かしいカナダ人宣教師たちも続々と戻ってきて、山梨英和女学院や静岡英和女学院の復興も始まりました。

『風と共に去りぬ』を復刻して成功した三笠書房から、昭和26年(1951年)に『風と共に去りぬ』に続く翻訳作品を刊行したい、との依頼が花子さんにありました。

『アン・オブ・グリン・ゲイブルス』は、『風と共に去りぬ』のような、激動の歴史を背景としたドラマティックな作品などではなく、孤児である少女アンの日常生活とその成長を描く児童向けの物語です。

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(C)Confedration centre of the Arts

『アン・オブ・グリン・ゲイブルス』の邦題は、当初は『窓辺に倚る少女』と決まっていたそうです。しかし、三笠書房から、『赤毛のアン』はどうだろうか? との打診が印刷直前にあり、これまた一旦は断った花子さんでしたが、娘のみどりさんに「素晴らしいわ!! 断然『赤毛のアン』になさいよ、お母様!」と言われ、慌てて前言を翻しています。この変更はぎりぎりで間に合い、邦題は『赤毛のアン』となりました。

 

こうして昭和27年(1952年)5月、『赤毛のアン』は出版されました。

『アン・オブ・グリン・ゲイブルス』を託して帰国したショーさんは、翌年に祖国カナダで亡くなりました。また原作者のモンゴメリも1942年には亡くなっています。

しかし、終戦後から7年、まだまだ貧しい世相と民主主義のもとでの女性の自立と社会進出を促す風潮の中で、どんな困難に遭遇しても、想像力と信念、そして溢れんばかりの愛情で家族と共に成長していく『赤毛のアン』の物語は、日本中の若い女性たちの絶大な支持を得て、一躍、大ベストセラーとなりました。以降、60年たった現在でも、世代を超えて愛され続けています。

尚、村岡花子さんは市川房枝さんの勧めで婦選獲得同盟に加わり、婦人参政権獲得運動にも尽力されました。その後、昭和35年(1960年)には、児童文学に対する貢献によって藍綬褒章を受賞され、昭和43年(1968年)、脳血栓で惜しまれつつ死去されました。

 

村岡花子さんは、間違いなくアン・シャーリーそのものです。決して裕福な家庭の生まれではないにも関わらず、少々、頑固ともとれる信念の持ち主で、一旦こうと決めたことは必ず成し遂げていきます。

いろいろと降りかかる試練にも明るく耐えながら、愛する家族のために奮闘する姿は、まさしくアンそのものではないでしょうか・・・。

-終-

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