《人物小研究》 小堀遠州・・・まさに江戸時代初期の先進的文化人!! 〈25JKI00〉

遠州104小堀遠州、名は政一(まさかづ)。近江浅井郡小室藩主で、伏見にて69歳で病没した戦国時代末期から江戸時代初期の大名である。

彼は建築家・作庭家・茶人であり、今でいう空間デザイナーの始祖だった。その遠州を今回は小研究する!!

 

小堀遠州の生涯

小堀遠州は、幼名は作助、名は政一(正一)という。天正7年(1579年)に近江国(現在の滋賀県坂田郡南郷里村小堀)にて、小堀正次の子として生まれた。

初めは父の正次に従い豊臣秀長に仕え、文禄2年(文禄4年とも)(1593年)には豊臣秀吉の直臣として京都伏見に移り、そこで古田(重然)織部の弟子となった。秀長家臣の頃には千利休との面識もあり、やがて三大茶人と呼ばれ、織部の創作的な茶道を受け継いでいく。

慶長3年(1598年)に豊臣秀吉が亡くなると、父の正次と遠州は徳川家に仕えた。正次は関ヶ原の合戦での戦功により備中松山城を賜り、慶長9年(1604年)の正次の死後は、遠州がその遺領を継ぎ大名となった。

後に江戸幕府のもとで、慶長13年(1608年)には駿府城築城の作事奉行を務め、その功などにより、従五位下遠江守に任じられる。この官位に由来して、「遠州」と呼ばれた。

元和5年(1619年)には近江国浅井郡小室(約1万2千石)に転封となる。遠州は、元和9年(1624年)に伏見奉行に任ぜられ、以降、伏見奉行職にあること20余年の正保4年(1647年)、伏見奉行屋敷で69歳にて没した。ちなみに墓所は孤篷庵にある。

その業績

■作事(建築・造園など)に関する業績

江戸幕府の公儀作事に関する主な業績としては、 禁裡や仙洞御所、桂離宮から二条城、名古屋城、江戸城内山里などの築城・造園等に才能を発揮した。大徳寺の孤篷庵、南禅寺金地院などは、彼が作庭した代表的な庭園。また龍安寺の石庭も遠州の作では、との説もある。

遠州3e0214433_1204064茶道にも共通する端正な美学が作庭や建築にも反映しており、その庭園作りのコンセプトは「自然と人工の対比」とでも云えよう。

造園の作風については、師である古田織部の影響を受け継ぎ発展させたとされるが、様々な形の不規則な切石を組み合わせた畳石と、矩形や正方形の切石を配置した幾何学的な構成は、遠州以前には見られない特徴的な石使いであり、特に直線の美の活用が出色である。

また西欧の造園手法を身に付けていたともいわれ、和の伝統的なファジーな美意識と、西欧の合理的で均整のとれた手法の融合が見られる。植木を大胆に刈り込んで花壇を多く設け、芝生を貼った庭園作りには西洋庭園の影響が散見される。

■茶人としての業績

寛永元年(1624年)頃から茶人としての活躍が顕著となり、3代将軍徳川家光の茶道指南を務めた。彼の茶風は戦国時代の荒々しい武家茶道とは異なり、新しい安定した(徳川)時代にふさわしい優美で均衡のとれた古典美を兼ね備えた「きれい(綺麗)さび」と云われ、幽玄・有心の茶道、遠州流茶道の創始者となる。

この様に、明るく大らかで軽快な近世茶道は遠州によって確立されたとの見方が強い。こうした織部から遠州という大名茶の系譜は、のちに片桐石州に受け継がれ、武家の茶道として江戸時代を通じて継承されていった。また、彼の門下には松花堂昭乗沢庵宗彭などがいる。

■美術工芸に関する業績

美術工芸に関する業績においては、先ずは「中興名物」の選定がある。茶道具のうち由緒ある優れた銘品を、千利休以前のモノで特に東山時代のモノを「大名物」、利休時代のモノを「名物」、遠州が自らの美意識に基づいて選んだ利休時代以後のモノを「中興名物」という。

「大名物」を唐物とするならば,「中興名物」は国焼(和物・国産)の集成であり、それらは、和歌や歌枕の地名、王朝時代の古典から取った題材を参考に、歌道にも造詣が深い遠州がそれぞれの道具の個性にちなんだ銘をつけた。

更に、「遠州好み」の窯といわれる高取、志戸呂、丹波、膳所、信楽、伊賀など多くの国焼の茶陶の制作・指導にも注力した。 また、中国、朝鮮、オランダなどの海外への、自らデザインした舶来茶陶の注文にも力を注いだ。また、遠州作でなくとも、その影響が強いものを「遠州好み」という。

 

遠州は、戦国時代末期から江戸時代初期へという歴史の変革期にあって、利休や織部の築いた「侘び寂び」に、洗練された華やかで明るい雰囲気をもたらした。それは、近世初頭の明るい息吹で、日本の美意識を、太平の世に合った新たな美の体系として再構築したといえよう。

造園・建築から茶道、そして歌道にも精通し、また華道の世界へも影響を与え、手水鉢や水琴窟の原点といわれる洞水門の発明など、その驚くべき博学と様々な技術への理解は、まさに日本のレオナルド・ダ・ヴィンチと謳われるにふさわしい、先進的文化人だったのだ。  

-終-

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