復元力・船体強度不足 ~米海軍第3艦隊の苦難~ 〈1031JKI07〉

スペンス1USS_Spence_(DD-512)_in_San_Francisco_Bay_1944復元力や船体の強度不足に悩まされたのは、日本海軍だけではなかった。

太平洋戦争中の米海軍では、ウィリアム・ハルゼー大将率いる第三艦隊が、強力な台風に遭遇し第四艦隊事件を上回る被害を受けたのだ。その被害は、日本軍との戦闘よりもよほど大きなものだったとか・・・。

 

太平洋戦争中、ウィリアム・“ブル”・ハルゼー大将(最終階級は元帥)指揮下の米海軍第3艦隊は2度にわたり強力な台風により甚大なる被害を受けた。まさに日本軍の神風特別攻撃隊に苦しめられただけではなく、正真正銘の神風にも襲われたのである。

 

第3艦隊はレイテ沖海戦において日本海軍に大勝利した後、レイテ島攻防戦に継続して従事しており、ウルシー泊地での2週間の休養の後、昭和19年(1944年)12月13日に再びフィリピンのルソン飛行場への攻撃を開始した。

当時、第3艦隊傘下の空母機動部隊は第38任務部隊であり、司令官はジョン・S・マケイン中将(のち大将)であった。 12月17日、第38任務部隊は燃料補給のため一旦、東方海面に引き揚げた。しかし次第に天候が悪化してきたので、正午過ぎには給油作業を中止することになった。

18日の朝、マケインは台風接近の報に接し、上官ハルゼーの「避けずに突破する」という決定を承諾した。しかし、この判断ミスにより、艦隊は強力な台風に真っ向から突入してしまい、駆逐艦3隻の沈没をはじめ多数の艦艇に大きな損傷が生じ、多くの人員に死傷者が出たのである。

 

「コブラ台風 Typhoon Cobra 」と命名されたこの台風は小規模ではあったが大変強力で、第38任務部隊を容赦なく襲った。風速は55m/秒に達し、レーダーは吹き飛び、舵は効かなくなり、艦艇間の通話も出来なかったとされる。

駆逐艦『ハル』や『モナハン』、『スペンス』は燃料が枯渇しており、更に、嵐の為にバラストとしての海水を吸引し積載する時機も失った為に、その重心は高く、安定性が失われていた。この3隻の駆逐艦の転覆・沈没は、強力な台風に遭遇したことと、ほとんど燃料タンクが空であったという悪条件が重なった結果ではあるが、本来の設計につき復元性能に関して明らかに問題があったと考えられている。

軽空母『モンテレー』では搭載機が壁に衝突して火災が発生し、同艦に配属されていた後の大統領ジェラルド・R・フォードは艦外に吹き飛ばされる寸前であった。艦を波任せにして漂流した後、夕方になってようやく危機を乗り切ることが出来たモンテレーは、この台風によって乗組員3名が死亡し、40名の重軽傷者を出した。

この『モンテレー』をはじめとして、駆逐艦3隻の喪失の他に18隻の艦艇が大破し、9隻が損傷を受けた。海中に投棄されたり、損傷あるいは焼失した艦上機は183機にのぼったという。

そして800名にものぼる将兵・乗組員が死亡または行方不明となった。この様にして第38任務部隊は「コブラ台風」にこっぴどく叩きのめされてしまったのだ。

 

後にウルシー泊地で開催された査問委員会では、ハルゼーやマケインの判断ミスが糾弾されハルゼーの更迭も検討されたようだが、彼の国民的人気などを考慮して見送られたという。

当時、米海軍は空母機動部隊中心の対日戦の主力艦隊を、司令官や幕僚・スタッフと艦隊の名称を「第3艦隊」と「第5艦隊」とに交互に代えながら作戦運用に従事していたが、この入れ替わりに伴い、ハルゼーは1月27日には第5艦隊司令長官のレイモンド・スプルーアンス大将と代わり休養と次期作戦の研究に就き、同時にマケインもまた第58任務部隊司令官のマーク・ミッチャー中将(のち大将)と交代した。

 

沖縄で激戦が続いていた1945年5月27日、ハルゼーはスプルーアンスと交代して戦線に復帰、翌28日にはマケインもミッチャーから指揮権を譲り受けた。

空母『シャングリラ』を旗艦としたマケインの第38.4任務群(38任務部隊の一部)は、6月2~3日にかけて神風特攻の基地を破壊する為に、折りからの暴風雨をついて九州方面を攻撃したが、さほど大きな戦果は挙げられなかった。そして補給のため南方へ向かった。

翌4日から5日にかけて、沖縄・九州南方海域には強力な台風が来襲し、作戦行動中の第38.1と第38.4の両任務群はその猛威に遭遇し、特に第38.1任務群には甚大な被害が発生したのだ。

台風来襲の報告をもとに、ハルゼーとマケインと共に台風の予想針路を検討した上で台風の南側に廻りこむよう命令して、一旦、艦隊を南東方向に進ませた。ところが、彼らの予測は外れ、コブラ台風の時と同様に台風に真正面から突入することになり、指揮権の移譲を受けたマケインは全艦隊を北方に転進させたが手遅れであった。

やがて台風から抜け出した両任務群は、コブラ台風の時の様な沈没艦こそ出さなかったものの、重巡洋艦『ピッツバーグ』の艦首は破断して漂流し、空母『ホーネット』および『ベニントン』の前部飛行甲板は大きく破損してしまうなど、甚大な被害が出てしまった。

この台風により第3艦隊は、戦艦4隻、正規空母2隻、軽空母2隻、護衛空母4隻、重巡洋艦3隻、軽巡洋艦4隻、駆逐艦以下17隻の合計36隻の艦艇が損害を被り、艦載機142機が破壊される打撃を被った。

 

6月19日に第38任務部隊がレイテ湾に帰投した後に開かれた査問委員会では、今回もコブラ台風の時と同様に、ハルゼーとマケインの判断ミスは大きいと結論付けられ、二人を今度こそ更迭すべきとの意見が提出された。しかし、再び政治的とも思われる圧力でハルゼーは不問に付されたが、海軍作戦部長であったアーネスト・キング元帥の子飼いといわれていたマケインの将来は極めて暗いものとなった・・・。

 

日本海軍が友鶴事件や第四艦隊事件の教訓で、復元力の大切さや船体強度の重要性を強く認識して大改装に及び、その後の建艦においてもこれらの点を重視したのとは異なり、米海軍は、艦艇の建造や設計においても、特に強力な台風との遭遇は考慮していなかったのである。

当然ながら、第四艦隊事件などは日本海軍の極秘事項であり、他国の海軍関係者は知る由もなかったのだ・・・。

-終-

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