【小研究】 騎馬戦闘の実態 〈25JKI00〉

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日本史における、騎馬戦闘の実態を解説する記事。そこで用いられる馬術と使用する武器の関連性や、具体的な戦術等を紹介する。

今回の【小研究】は、馬上で戦う武士たちの本当の姿を調べてみた。TVや映画でよく描かれる様子とは、いささか異なる姿で彼らは戦っていた様だが・・・。

 

騎馬戦闘の当初は弓射戦が中心であった。騎乗した武士が弓を中心に戦いに臨んだことは、前九年・後三年の役から平安時代には確立していたようだ。

その後、名だたる武士にとっては、南北朝時代後期までのおよそ400年間くらいは馬上での弓優先の戦いが続いたと考えられている・・・。この頃、当然ながら武士が徒歩で戦うこともあるにはあったが、決して戦闘の主役ではなく、徒歩戦は具体的な戦闘描写すら伝わっていない。

弓術の戦法

基本的には弓射がメインの戦いであるが、矢を射つくしたら互いに馬上での組み討ち、そして下馬か落馬後には太刀(たち)を使った。もちろん、騎馬武者は常に馬上で弓射を行っているのではなく、馬を下りて、楯に隠れて弓を射ることもある。また、騎馬武者の弓射は、馳組戦、つまり馬を馳せながらの弓射戦と、馬を止めての馬静止射がある。後者は平家物語での那須の与一のシーンが有名である。

一騎討ちの例は実際は多くはないのだが、基本的には騎馬武者による弓射戦が戦闘の基本形態であり、個人戦が主体である。それが変化してくるのは、鎌倉時代も終わった南北朝時代の『太平記』の頃からである。

当時、馬上から自由自在に弓を射る技術は高い評価を得ていた。武士に必要な必須の技術は弓術であり、まだ太刀は弓の補助武器だったのだ。

弓は、竹・木など複数の部材を合わせることで威力を増した合わせ弓であり、籐で巻き込めた重藤の弓を使用していた。矢は、箙(えびら)に差した征矢(そや)を24~25本ほど携帯していた。

武士たちは疾走している馬上で矢を番(つが)えるのに、平均4秒くらいを要していた。そしてこの4秒で50m近くは移動できた。また、有効射程は馬上で疾走中の馳せ弓の場合は30mくらいであった様だが、静止して曲射すると200m程は飛んだともいう。

日本独特な和鐙は、馬からぶら下がった皿の様なもので、載せた足の方向は結構自由に動かせた。これで馬上の体は比較的楽に捻ることが可能だった様だ。つまり、意外と前後左右、広い角度で弓を射れたし広い射界が得られた。また、鞍から体を浮かせて鐙の上に立つことで、馳せ弓の場合でも安定して弓が射れたのである。

弓術の場合、攻撃可能範囲は正面右45度から左側を廻り後方真後ろまでである。しかし有効な攻撃を実行するには、常に敵を自身の乗馬の左側に置く必要があり、射損ねると素早く右に輪乗り(回転)して再び敵を左側にとらえて再び攻撃することになる。右輪乗りが多いため弓術では、右手前が原則である。但し、完全な一騎打ちの場合は、互いに左廻りで死角(馬手=右側斜め後ろ)を取られないように機動することも多い。この場合は左手前である。

最も多い戦闘パターンは弓手筋違(物追射)で、左斜め前に敵をとらえ、馬を直進させながら正面から左45度くらいに向け矢を射る形。弓手横といわれるのが、左側の近距離の敵をすれ違いざまに射つパターンで流鏑馬でも用いられる。後方を狙う射撃方法には、西洋のパルティアンショットのような体を後ろ向けに捻った押捻がある。最も難易度が高いのは、小笠懸という右側死角ぎりぎりの、馬首の右側方を狙う方法である。

刀術の戦法

古来は、弓こそが武士の本分であり、まずは堂々と弓合戦を行った。そして矢を射つくしたら、そこからが太刀打ち(打物)の勝負となった。後世の打刀(うちがたな)と違い、太刀が長く反りが大きいのは、馬上から片手で斬り付けることが前提だからだ。

刀術においては、右片手斬りが基本であり、そこで敵を馬の右側に迎えるようにする。攻撃を反復する場合、コンパクトに乗馬を左に巻乗りして転回する。騎乗の武士同士の一騎打ちは、弓戦とは逆に互いに右廻りで戦うことになる。この場合は右手前である。

この頃の太刀を使用した戦いは、基本的には騎馬同士で斬り合うことが前提であり、騎馬上から徒歩の敵に対し太刀を斬り下ろした場合は、首から上を攻撃するのがやっとであったと思われる。

その後、槍が多用される時代までの武士の武器の中心は薙刀、長巻などの打物となる。反対に騎馬弓は廃れ、徒歩の弓兵がメインとなっていく。足軽などの歩兵が多数戦場に投入されはじめて、白兵戦が常態化していくとともに、騎馬の武士は戦場に馬で乗りいれて打物を手に暴れた方が強力な戦力となることが理解された。更に徒歩足軽の弓兵化で、弓術そのもののステータスが低下したことも影響しているのだろう。

やがて、馬上から徒歩武者に斬り付けるには長大な刀が必要である為、薙刀、長巻などの打物全盛の時代が訪れる。

そこで、南北朝時代から室町時代後期にかけて騎馬で多用された武器が薙刀だ。または太刀を長大にした長巻、野太刀といわれる打物などである。

薙刀は馬上で振り回すことが充分可能で、左右の手を持ち替えながら自在に振り回せる。また、薙刀は非力でも遠心力を使用して大きな斬撃力が得られるので、後に女子の武器となる。もともとは刃長が60cmを超える大型なものが主流で、馬上からの斬撃が有効・強力であり、下馬しての戦闘でも活躍し、これは長巻・野太刀も同様だった。

甲冑の変化

戦い方の変化は、甲冑の構造の変化・変遷にも現れている。矢から身を守る為の矢を防ぐ盾のような構造の「大袖」、騎乗することが前提の重い「大鎧」などが、馬上でも徒歩でも動きやすい「胴丸」「腹巻」などに取って代わられた。

また打物の打撃から受ける衝撃から頭を守るために、兜は鉢が大きくなり 頭に密着して装着はせず、「しころ」は笠のように張って肩を守るタイプとなっていった。

槍術の戦法

(全世界的に)代表的な武器である槍は、意外なことに日本では平安時代から室町時代前期まではあまり使用されていない。しかし、室町時代後期から戦国時代の初期にかけて、合戦の大規模化に伴い戦場の主武器となっていく。

戦闘力が高く、効果的でコストは低い上に、扱い易くて使う側に訓練があまりいらない槍は、長柄(ながえ)と持槍(もちやり)に分かれる。

足軽などが集団で槍衾を形成するのが長柄、武将が手持ちの武器として使うのが持槍である。持槍は、一間から二間の長さで槍の穂は長いもので60cm程度、突くだけでなく振り回して斬ることも可能である。

二間(3.6m)の槍でも馬上で振り回すことが可能だ。槍の攻撃範囲は広い。また殴るように振り回せば、その破壊力は凄まじいものがある。但し、疾走する馬上からの槍は扱い難い。敵を刺すと、その反動で突いた方も馬から吹き飛ばされてしまう可能性があるのだ。その為、馬を馳せながら槍を使用する時は、突くのではなく、振り回して敵を叩くように攻撃するのが正しいとされている。疾走する馬上からは比較的薙刀は使いやすいが、槍は想像以上に扱い辛いのだ。もちろん、馬を静止して突くことは出来るが、この場合も直ちに引き抜く必要がある。

片手突きによる槍術の適正な攻撃可能範囲はある程度限られ、正面から右真横までの90度くらいであるが、両手による場合はもう少し範囲は広がるだろう。しかし、敵を突き刺した時は素早く引き抜かないと、落馬するか槍が折れてしまう。自分が肩を脱臼してしまう恐れさえもあるのだ。そこで前述の様に、馬上から叩き下ろす様に振り回す戦法が攻撃可能な範囲も広がり有効である。但し、乗馬の左側と後方はおおよそ槍術の死角であり、また左側の敵と戦う場合は落馬の危険もあった。

尚、実際にはTVや映画のように馬上では槍先を下げると極めて危険であり、和鞍の上に立てると良いそうだ。

馬上筒の戦法

乗馬にて使用する銃は、一般的に馬上筒という。洋の東西を問わず、馬上では銃身の長いものの操作は難しい為に、銃身の短いもの(カービン)を使用する。

右片手操作なので、右真横から左真横までの約180度程度が攻撃範囲である。但し、より適正なのは正面から右側であり、敵を馬首右側前方にとらえるのが最適である。

銃口から火薬や弾丸を込める時、銃床のかぶ(芝おし)を左の鐙に置き、装薬装弾をしたという。馬上筒は、全長30~40cmくらいの短銃が主で、射程も短く命中率も劣る。多くの場合は、 霰弾(散弾)を使用して敵が集団で群がっているところに向けて放つ。この散弾発射は、「塵砲(じんぼう)撃ち」という。また、鞍の四方手(しおで)に、数挺の装弾済の馬上筒を提げて携行する場合もあった。

戦場の馬術

さて、馬上での戦闘では速度が速い方が有利であり、襲撃時には速足(trot 時速約13.2km)よりは駈足(canter 時速約20.4km)、駈足よりは襲歩(galop 全速力・最大戦速)と、段々と速度を早めることになるが、長時間(長距離)の駈足や襲歩は馬の体力がもたない。一旦、攻撃が終わると馬を廻して攻撃を繰り返すのだが、右旋回する場合は右手前で、左旋回の時は左手前が前提だ。

また、駈歩や襲歩などの途中で手前が逆になる場合は危険であり、馬が横倒しに転倒しやすいといわれている。駈歩を継続したまま空中で手前を変える踏歩変換の方法(フライングチェンジ flying Change)は、高度の乗馬術である。

尚、手前(てまえ)とは、馬術における馬の歩法において、それぞれの足(脚)の動きの左右の順番のことである。左右の足のうち遅れて着地する方を手前足といい、右足が手前の場合を右手前、左足が手前の場合を左手前という。右旋回の時は右手前で、左カーブは左手前がよい。

 

大きな合戦での、一番槍の作法としては両軍対峙の場面で単騎で乗り出して、ゆっくりと大きく左側に輪乗り(旋回)しながら 高々と名乗りをあげる。そして馬首を立て直し、その刹那に左手前で敵陣に一直線に突進するのだ。

戦闘時には、両手ともに手綱持ちが出来ない場合もあった。しかし手綱を放しての、鐙での操作だけでは危険であり、相当の熟練が必要とされた。馬術の熟達者は鐙だけで乗馬をコントロールすることは可能であったが、喊声や怒声に鉄砲の発射音などが充満していた現実の戦場では、果たしてどうであっただろうか?

 

次回の【小研究】では、かつて騎馬の武士たちが乗っていた日本の馬、和駒について解説する予定だ。

-終-

 

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