ダニエル・キイスに続いてなぜか訃報が重なるが、ジャズ・ピアニストのホレス・シルバーが6月18日に亡くなった。
ブルーノート・レーベルのセピア感満載なジャケット写真の数々と懐かしいあのファンキーな音色。そして、ハード・バップ全盛期のモダン・ジャズ・シーンを牽引したシルバー節は忘れられない…。
米国の各報道によると、有名なジャズ・ピアニストで作曲家のホレス・シルバー Horace Silver が18日、ニューヨーク州ニューロシェル市の自宅で死去した。享年は85歳で、自然死とされている。
シルバーは1928年9月に米国コネティカット州のノーウォークに生まれ、1949年からプロのジャズ・ミュージシャンとして活動を開始した。ラテン音楽やゴスペルなどに影響を受け、著名なジャズ・ドラマー、アート・ブレイキーのグループ(ザ・ジャズ・メッセンジャーズとして有名)の音楽監督兼ピアニストとなりその後独立、1950年代のハード・バップと呼ばれるモダン・ジャズの一大潮流を主導した。
彼は、あのトランペット奏者マイルス・デイビスのアルバムなどにも参加している。また、モダン・ジャズの代表的なレコード会社であるブルーノートでレコーディングした時期が長く、一時期は同レーベルの顔役的な存在でもあった。
彼の音楽スタイルはハード・バップの中でも特にファンキー・ジャズと呼ばれ、ブルース・フィーリングに加えて、ほど良くラテン音楽のテイストが混じり合ったものである。
1950年代中頃から後半にかけての、一挙にジャズが一般に普及したことの背景には、ジャズのルーツであるブルースや教会音楽のアージーなフィーリングを強調したハード・バップの一大勢力である、このファンキー・ジャズの台頭があったといわれている。
そしてこのファンキー・ブームを牽引したのは、前述のアート・ブレイキーやサックス奏者のキャノンボール・アダレイであり、そしてなによりホレス・シルバーであった。
次々とシルバー節といわれるファンキー・ジャズのヒット曲を連発、時代の寵児となっていたシルバーだが、ピアニストととしては、やはりパウエル派でありながら独特の個性を持っていたといえよう。歌うがごとく弾むような短いリフ的な繰り返しフレーズを活用したその奏法は、子猫が手毬を弄んでいるような演奏のスタイルとも評された。
個人的には、ピアニストとしてのシルバーよりも、作曲家でありグループ・リーダーとしての彼を高く評価したい、と考えている。特にコンポーザーとしての才能は偉大であった。
「オパス・デ・ファンク(Opus De Funk)」「ザ・プリーチャー(Preacher」「セニュール・ブルース(SenorBlues」「シスター・セイディ(Sister Sadie)」「ジューシー・ルーシー(Jucy Lucy)」「ニカス・ドリーム(Nica’s dream)」「ソング・フォー・マイ・ファーザー(Song for My Father)」などの、誰もが簡単に口ずさめる親しみやすいメロディーの楽曲の数々は、ファンキー・ジャズのエッセンスであり、彼の名曲は枚挙に暇がない。
シルバーによると、ファンキーとは、ブルージーでダウン・トゥ・アースなフィーイングのことであり、生活の中から自然と生まれてきたものだそうだ。
アルバム単位でのお勧めは、御大ブレイキー以下のメッセンジャーズのメンバーとの共演版が『ホレス・シルバー&ザ・ジャズ・メッセンジャーズ』、リーダー作では『ザ・スタイリングス・オブ・シルバー(The Stylings of Silver)』や『フィンガー・ポッピン(Finger Poppin’)』『ブローイン・ザ・ブルース・アウェイ(Blowin the Blues Away)』『ドゥーイン・ザ・シング(Doin the Thing)』『ソング・フォー・マイ・ファーザー(Song for My Father)』あたりであろうか…。
大変失礼ながら、とっくに他界されていたと思っていた。さすがに、他にはあの頃のミュージシャンで存命の方は少ないだろうな。まさしく明治は遠くなりにけり、である…。
しかし、久しぶりにレコード(CDではない!)をひっぱり出してきて聴いてみたが、やっぱりファンキーだねぇ、イカすじゃないか!! う~む、今夜はJM(ザ・ジャズ・メッセンジャーズ)のライブ盤でも聴こうかナ。
-終-
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