しばらく真田幸村と彼の一族・郎党にまつわる話をさせてもらうことにしたが、そのシリーズ第二回目は、真田十勇士の残り五人を紹介しよう。
霧隠才蔵以下、由利鎌之介や穴山小助、筧十蔵、海野六郎といったメンバーである。
ちなみに、最近人気の漫画『BREVE10』→ではメンバーの穴山小助と伊三入道が別人(巫女とくノ一)と入れ替わっている・・・。
「十勇士」後半の5名を紹介
それでは後半戦として、猿飛佐助と共に人気を二分する霧隠才蔵以下の5名を順次紹介していこう。
■霧隠才蔵
霧隠才蔵(きりがくれ さいぞう)は、真田十勇士の中では猿飛佐助と人気を二分する双璧であり、主役級のスターだ。立川文庫の55冊目に『真田三勇士忍術名人 霧隠才蔵』があり、そこでの才蔵は、北近江の大名浅井家の侍大将、霧隠弾正左衛門の遺児となっている。
才蔵は、浅井家が信長に滅ぼされると郎党らに守られて伊賀の名張に逃れ、伊賀忍術の頭領であった百地三太夫の弟子となって修行し、伊賀忍法の極意を会得した。その後、姫路近くの山中で山賊となっていたが、猿飛佐助と出会い忍術合戦の末に佐助に誘われて、真田幸村に仕えることになる。
『真田三代記』には、幸村の配下の者に霧隠鹿右衛門(幸村の命で家康の動静を探る)という人物が登場しているが、立川文庫では、この鹿右衛門をベースに才蔵のキャラを新たに創造したようだ。
物語で才蔵は、大坂夏の陣では電光石化の大活躍で徳川方の大軍を悩ませ、家康の寝首を掻こうとするが失敗してしまう。大坂落城後は、幸村に従い豊臣秀頼脱出を助ける。
甲賀流忍術の遣い手である猿飛佐助と並び、伊賀流の霧隠才蔵は圧倒的な強さで真田忍軍を引っ張っていくが、この二人のライバル関係が十勇士の見どころの一つとなっている。
また現代の漫画やアニメでも、佐助と同等、もしくはそれ以上に人気を集めているのが才蔵だ。大抵は気さくで陽気な佐助に対して、ニヒルで少々翳りを帯びた二枚目に描かれていることが多く、これは昔も今も変わらない。
■由利鎌之介
由利鎌之介(ゆり かまのすけ)は、『真田三代記』に由利鎌之介の名で登場している。また立川文庫の一冊には、『真田三勇士 由利鎌之助』がある。
この鎌之介については、実在の由利鎌之介基幸をモデルにしているという説と、まったく創作された架空の人物という説があるが、筆者は後説支持派だ。
実在の由利鎌之介については、幸村の家臣として大坂の陣以前に死んでいたとも、また大坂の陣で討ち死にしたとも云われるが、結局、彼の存在を証明する複数の歴史的な一次資料はないのだ。
『真田三代記』では、鎖鎌と槍の達人として描かれている。初めは三河の野田城主菅沼新八郎の家来であったが、昌幸・幸村親子を狙う過程で穴山小助と一騎打ちした結果、小助に負けてそれ以降、幸村の家臣となったとされる。
立川文庫では、幸村の九度山配流以後は、江戸で槍の道場を開きながら家康の動向を探索した。その後は大坂冬・夏の陣において、穴山小助、三好兄弟らとともに大活躍している。
■筧十蔵
筧十蔵(かけい じゅうぞう)は、『真田三代記』では火縄銃の名手として筧十兵衛の名前で登場する。もともとは蜂須賀家の家臣であったが、幸村に心酔し、自ら望んで家来となったとされる。
真田十勇士の筧十蔵の実在のモデルは、真田幸村の家臣で筧十兵衛、もしくは筧金六郎、あるいはその子息と云われるが、幼くして真田家に小姓として仕えたとされる。もちろん創作された架空の人物の可能性もあるが、十兵衛は比較的多くの二次資料等で幸村に従って行動しており、鉄砲組を率いて活躍もしている。大阪夏の陣で討死したとされるが、真相は分からない。父の筧虎秀は真田昌幸の家臣であったが、知略を評価されて足軽から足軽大将にまで出世したと云われている。
立川文庫の物語では、種子島銃を巧みに使う、十勇士の中でも異色の存在だ。その性格は、豪快な面も思慮深く細心なところもあり、大阪落城後には、幸村と同行し薩摩へ向かったとされる。
■海野六郎
海野六郎(うんの ろくろう)は、信濃の名族滋野一族の宗家である海野家の出身とされる。『真田三代記』には海野六郎兵衛利一として登場しており、海野輝幸の三男と伝わる。彼は、実在の人物と云われている真田幸村の家臣のひとりだ。また小野派一刀流の開祖、小野忠明が舌を巻くほどの剣の達人だったともいわれる。
大坂夏の陣では、幸村の命で敵方に偽(にせ)の情報を流し、大いに攪乱したと云う。夏の陣で戦死したという説があるが、確証はない。上記の通り東信濃小県郡の海野氏の出身とされるがこの真偽も不明で、本当に真田家と縁戚であるとの証明はどこにも無い。
十勇士の海野六郎のモデルとしては、他に海野小平太の名も上がっている。
物語では、海野六郎は十勇士の中でも最古参であり、幸村の右腕的な立場であった。少々、喧嘩っ早いが頭脳明晰な参謀役として幸村を支えていく中で、根津甚八とともに奥州へ探索にも赴く。大坂夏の陣の後、幸村に従い薩摩落ちをしている。
■穴山小助
穴山小助(あなやま こすけ)もしくは穴山小介は、『真田三代記』によれば、武田家重臣の穴山信君の縁戚とされ、槍の名手として描かれている。
史実の小助は、穴山信光の長男で名は安治とも伝わる。また通称は岩千代で、号は雲洞軒。夏の陣の直前に伊達家々臣の片倉重長に保護された女児の中に穴山小助の娘と名乗るものがいたという史実があるが、しかし創作された架空の人物という説も有力である。
物語では、甲斐武田家の滅亡後、小助の父である穴山信光は小介を連れて傭兵として戦場を渡り歩くが、やがて真田家に仕官した。同時に小助も幸村の小姓となるが、小助は幸村と同年配で、容貌や体つきも似ていたという。
関ヶ原の敗戦の後、幸村が紀州九度山に配流され時にも同行したが、その後、漢方医をしながら諸国の動向を探る旅に出る。
大坂夏の陣においても、幸村の影武者として真田丸攻防戦で大活躍をするが、最後には家康の本陣に切り込み壮絶な戦死を遂げる。
「十勇士」の内、実在したのは誰か?
こうして十勇士に関しての解説文を記していても、虚実、ごちゃ混ぜの感が強く、何が本当のことかよく解からなくなってくる。
つまり、実際に存在した幸村の家臣のキャラクターやエピソードを、江戸時代の『難波戦記』や『真田三代記』がベースとして取り入れた上で創作したものを、後に講談が尾ひれを付けて、更に立川文庫が大袈裟に盛って? 創り直しているのだから、十勇士に何らかのモデルが実在することは確かとしても、最終的にはそのモデルとは無関係に近い飛躍した人物像やストーリーとなっている場合がほとんどだと思う。
要するに何が言いたいかというと、実在のモデルが存在するか? の議論は、あまり意味が無い、ということだ。
『真田三代記』では後の十勇士の内、猿飛佐助と望月六郎をのぞいた八勇士が登場している。(但し名前は異なる場合もあり)
立川文庫の諸作では、当初は猿飛佐助、霧隠才蔵、由利鎌之介の三人が主人公だったのが、(読者の反響に合わせてバリエーションを増やすためもあってか)彼らが物語の中で次々と新たな仲間と出会い盟友の契りを交わし、ついには十勇士が揃うに至る。
この展開は水滸伝のパターンと同じであり、はたまた里見八犬伝なんていう先例もあったりして・・・シリーズの延命にはもってこいの方法である。所詮は講談本なのであるから、面白ければ何でもありの世界だった。
古来より判官贔屓の日本人には、逆境にある豊臣家にあくまで味方し、敵役でずる賢い徳川家康を散々に翻弄する真田幸村と十勇士は、理想のスーパーヒーローだった。
彼らは現在に至っても、様々なメディアにおいて、まったく輝きを失うどころか益々活躍の幅を広げていると思うが、如何であろうか・・・。
-終-
【六文銭の旗のもと】 真田十勇士(1) 猿飛佐助、参上!!・・・はこちらから
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