激烈な紛争が続くアラブ諸国、中でもシリアやイラクなどでは、かつて欧州の帝国主義国家たちが、民族や宗派の違いやその分布の実態を考慮せずに決定した国境線の矛盾が、大きな問題となっている。
現在、イラクで侵攻を続けるイスラム教スンニ派の過激派組織「イスラム国 (Islamic State)」は、先日、現状の国境線を無視し、シリアとイラク両国をまたいだ形で新国家を建設すると、世界に対して一方的に宣言した!!
『サイクス・ピコ協定(Sykes-Picot Agreement)』とは、第1次世界大戦中の1916年5月16日にイギリス(英),フランス(仏),ロシア(露)の3国が,ロシアのペトログラードでオスマン帝国領の分割を約した秘密協定のことで、シリア、キリキア、メソポタミアなどにおける3国の将来の勢力範囲を取り決めた秘密協定である。この協定に基づき、現在の国境線の原形が生まれたと云われている。
当初はイギリス代表の中東学者マーク・サイクス(Mark Sykes)とフランス代表の外交官フランソワ・ジョルジュ=ピコ(Georges Picot)とが原案をつくり,後にロシアも加えた3国で決められたもので、内容は概ね下記の通りであった。
・シリア南部と南メソポタミア(現在のイラクの大半)をイギリスの勢力範囲とする。
・シリア、アナトリア南部、イラクのモスル地区をフランスの勢力範囲とする。
・黒海東南沿岸、ボスポラス海峡、ダーダネルス海峡両岸地域をロシア帝国の勢力範囲とする。
この協定の内容は、イギリスが中東のアラブ国家独立をフサイン・イブン・アリー(後述)に約束した『フサイン・マクマホン協定』や、同じくイギリスがパレスチナにおけるユダヤ人居住地を明記した1917年11月の『バルフォア宣言』などと矛盾する、二枚舌はおろか三枚舌外交であるとして後世大いに批判された。
ちなみに、1917年にロシア革命が勃発すると、同年11月にはソビエト革命政府によって旧ロシア帝国が締結した『サイクス・ピコ協定』の秘密外交の内容が暴かれ、アラブ諸勢力の大きな反発をかうこととなった。
その後、第1次世界大戦で敗戦国となったオスマン帝国は現実に解体され、トルコ革命を経たのち、現在のトルコ共和国が樹立された。
英仏の中東分割案は、1920年4月のサン・レモ会議でほぼ決まっていたが、1923年にトルコ共和国が『ローザンヌ条約』に調印したことで正式に確定した。
『サイクス・ピコ協定』や以降の各交渉は、後(のち)のこの地域の国家の成立にも大きく影響している。フランス(仏)の勢力範囲となったシリア地方からは後にレバノンやシリアといった国が独立し、イギリス(英)の勢力範囲からは後にイラク、クウェートなどが独立することになった。
これらの地域は、英仏などの協議の結果として「人為的に決定した極めて不自然な国境線」となっているのだ。民族や宗派の違いやその分布の実態を考慮せずに決定した国境線が、その後も住民たちを苦しめ続けることになる。
ウィストン・チャーチルが主催した1921年3月21日のカイロ会議では、トーマス・エドワード・ロレンス(Thomas Edward Lawrence)/通称アラビアのロレンスの反対を押し切ったガートルード・ベル(Gertrude Margaret Lowthian Bell)の意見が採用されたことで、不自然な国境線で分断されたクルド人問題が発生してしまう。
そして第2次世界大戦後には、イスラエル建国で生じたパレスチナ問題が中東地域全般に、尚更、複雑で大きな混迷と戦禍をもたらし、現在に及んでいる。