フサイン・イブン・アリー(حسين ابن علي Ḥusayn ibn `Alī)は、1853年にハーシム家に生まれ、トランスヨルダンのアンマンで1931年6月4日に亡くなった。マッカのシャリーフ(在位は1908年~1916年)としてオスマン帝国からのアラブ独立運動を指導した後に、ヒジャーズ王国の国王(在位は1916年~1924年)となる。
第1次世界大戦中の1915年に、イギリスのカイロ駐在の高等弁務官であったサー・アーサー・ヘンリー・マクマホンとの間で、オスマン帝国からの独立戦争を開始する場合はイギリスの支援を得るという協定『フサイン・マクマホン協定』を結んだ。その後、4人の息子と共に「アラブの反乱」を起こして1916年、オスマン帝国からの独立を果たした。
しかしこの『フサイン・マクマホン協定』の約束に反して、イギリスはすでに『サイクス・ピコ協定』によりシリアやイラク地域をフランスとともに分割する方針を決めており、アラビア半島地区のみのヒジャーズ王国の建国となったのである。
この為、フサインの子ファイサルが率いるアラブ独立軍は、1918年9月にシリアのダマスカスに入城を果たしたが、『サイクス・ピコ協定』によりこの地域を自国の勢力範囲内と考えるフランスの反対を受け、1920年7月にはダマスカスから追放された。
しかしその後、1921年8月23日、上述のカイロ会議の結果としてファイサルはイギリスからイラク王に迎えられた。また、ファイサルの兄であるアブドゥッラー(アブドゥッラー・ビン=フサイン)はトランスヨルダンの首長とされ、これが現在のヨルダン王国のもととなっている。
また、フサインが創建したヒジャーズ王国は、1925年にナジュドのイブン=サウードによって倒された。そしてイブン=サウードは後に、サウジアラビアを建国して初代の国王となる。
そしてこの様にして、この地域の現代の国境線の枠組みが作られていったのだ。
「イスラム国 (Islamic State)」 は、シリアやイラクで活動するサラフィー・ジハード主義の過激派組織で2014年6月29日に、イスラム国家の樹立を宣言し、組織名「ダーイシュ(ISIS/ISIL)」 の名を廃して、「イスラーム国 (Islamic State)」 と名乗ると一方的に宣言した。
その建国宣言は『サイクス・ピコの終焉』と題された映像で、インターネットの動画投稿サイトで約15分間のビデオとして公開された。この宣言では、同組織のアブー・バクル・アル=バグダーディーが、カリフとして全てのイスラム教徒の指導者であるとし、イスラム国家であるカリフ統治領をシリア及びイラク両国の自らの支配地域に樹立するとしている。
当然ながら、諸外国はこの宣言の有効性を認めておらず、各メディアもこの組織を以前と同様に「ダーイシュ(ISIS/ISIL)」と呼ぶか、「イスラーム国と自称するテロリスト(あるいは過激派)集団」などとしている。
彼らは、イラク戦争後にはイラクの国内で数々のテロ活動を実施していたが、2004年にアル=カーイダと合流して「イラクの聖戦アル=カーイダ組織」と名乗った。しかしその行動が過激すぎるため、また構成員がイラク以外の国の出身者が多いために、一般のイラクの人民からの支持はほとんど得られなかった。
2006年1月には、イラク人民兵の主流派と対立した結果、名称を「ムジャーヒディーン諮問評議会」と改めて、他のスンニ派武装組織と合同し、更に2006年10月にはより改組を進め「イラク・イスラーム国」と名乗った。
2013年4月、アル=ヌスラ戦線と合同して組織名を「イラクとシャームのイスラーム国」(略称: ISIS)に変更し、イラクのみならずシリアへの武力関与を鮮明にした。
その後の「イラクとシャームのイスラーム国」は、アル=カーイダやアル=ヌスラ戦線との不和が表面化しており、最近では関係性が薄れているどころか、互いに反目しているとの説が有力だ。
しかし、シリアの反アサド政権組織から武器や人員の支援や強化を受けて、急速に兵力が増大している模様(数千人~1万人規模)で、現在、イラクのスンニ派住民の多い地域を中心に攻勢を維持しており、占領地域を急速に拡大している。
「イスラーム国」が現在の国境線を殊更否定するのは、100年以上にわたる欧米列強支配を打ち壊す真の解放者として、イスラム教徒全般の支持を得ようとしていることに間違いないだろう。
また、彼らが実効支配する地域は、同じスンニ派が生活している地域であり、住民にも押し付けられた国境線にはこだわらず、宗派として一体化することを歓迎する向きもあろう。
更に、新たに国境線をつくろうとしている勢力がクルド人だ。オスマン帝国の崩壊後も独自の国家を持てず、英仏などの思惑で、シリアやイラク、トルコ、イランなどの国々に民族は分断されてきた。そしてどの国においても少数民族として虐げられ、多くの弾圧を受けてきた。
彼らも、2012年夏にシリアで内戦が本格化すると、イラク北東部で実効支配地域を拡大する行動に出た。今年6月には、クルド自治政府は「イスラーム国」の大規模侵攻に乗じて、自治区外の油田地帯であるキルクークなどを占領して、石油をトルコなどへ販売しているという。
いよいよ、クルド人国家の独立に向けた住民投票を実行する計画もあるという。
米露を始めとする大国の綱引きもうまくいかず、シリア内線の終結の目途はまだまだ見えない。またイラクでは中部に多いスンニ派と南部に多いシーア派、そして北部のクルド人とが、国家が三分する対立を続けており、国が三分裂する可能性もあるだろう。
更にスンニ派とシーア派の宗教対立は、他のアラブ(イスラム)諸国も巻き込んで、複雑で簡単には解決のつかない様相を呈している。
100年以上も前の、帝国主義のご都合で引き裂かれた人々の苦痛は、いつ終わりを迎えるのだろうか・・・。
《注意-1:本記事は昨年(2014年7月11日)初出の記事です》
《注意-2:歴史的事実は別として、ISIL関連の状況・情報は変化・変動している可能性があります》
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