彼女の姿は無く、毛皮のコートや衣服の入ったスーツケース、開けられたままの化粧鞄、そして彼女の運転免許証が残されていた。あらゆる物的証拠が、自殺を含めなんらかの事件にアガサが巻き込まれた可能性を示していた。
11時頃にはサリー州警察本部に事故の一報が入り、初動捜索が始まった。翌5日には本格的な捜索が開始され、同日夜にはアガサの失踪を知らせる速報記事が新聞に掲載された。そして月曜日の新聞は警察当局の発表を大々的に掲載し、世間は大騒ぎとなった。
アガサの自宅近くの「サイレント・プール」と呼ばれる沼地は、彼女が過去に作品のなかで死体を浮かばせたこともあって、集中的に捜索が行われたが何も見つからない。他にも数多くの目撃情報が警察や新聞社に入るが、どれもこれも混乱を生むだけだった。
失踪から11日後の12月14日、事件はあっけなく解決する。ヨークシャーのハロゲート・ハイドロパシック・ホテル(ロンドンから北へ250kmほどの高級ホテル)から、滞在中のテレサ・ニールと名乗る女性客がアガサらしいとの一報が入ったのである。 因みに夫の浮気相手の姓もニールだっとことを思い出してほしい。
警察とアーチー、そしてどこからか情報を嗅ぎつけた新聞記者達ちはホテルに急行した。そこでアーチーが確認すると、テレサ・ニールと名乗る女性はまぎれもなくアガサその人に間違いなかった。
しかし当時のマスコミも世論も、アガサに厳しかった。彼女の失踪は自身の作品の売り上げを伸ばすための売名行為か、または夫に恥をかかせ陥れるための狂言だったのだろうと評した。だが警察は母親の死と夫の浮気が引き起こしたストレスによる一時的な錯乱が引き起こした記憶喪失だと結論づけた。
やがてアガサは考古学者のマックス・マローワンと再婚して新たな生活を始める。そしてミステリ作家として絶頂期を迎えるのだが、しかしアガサは生涯この失踪事件の真実を口にはしなかった。1965年に発表した自伝においても、事件について全く触れていない。そして1976年1月12日、アガサ・クリスティは風邪のため死去。失踪事件の謎を残したまま、85歳の生涯を終えた。
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この事件の真相に関しては、いくつかの説がある。記憶喪失は本当だという説と、共謀者とともに夫をこらしめるために起こしたという計画説など、現在もその真相は謎に包まれたままだが、一般的には記憶喪失説を紹介したうえで疑問符をつけるのが通例となっている。尚、決定的に記憶喪失説が否定されていない理由は、一つにはアガサ本人がそう主張していることと、記憶喪失説を覆す決定的な証拠がなく、また完全に否定することが科学的に困難なことのためのようだ。
記憶喪失説では、単なる自動車事故による脳震盪が原因などではなく、彼女の場合は「ヒステリカル・フーガ」と呼ばれるものだという意見もある。この場合の「フーガ」とは遁走という意味で、極度のストレスや緊張、強迫観念、怒りなどの影響で記憶を失い、当人は意識せずに自分自身を否定して別の人格となるものだそうだ。
しかしながら、記憶喪失説を疑うべき事実は多くあり、先ずは失踪翌日、12月4日の午前3時から8時までの間に、アガサはアーチーの弟キャンベル宛てに手紙を出していることが判明している。その手紙には自分の行き先がハロゲート・ハイドロであることを示唆する文面が記載されていたという。またアガサは4日朝、ハロッズ百貨店にダイヤの指輪の修理を依頼し、7日にヨークシャーで受け取っているが、記憶を喪失している者には出来ない芸当だ。
計画説は、彼女は最初から何らかの意図の下に周到な準備をして失踪に及んだ、というものである。しかし、いずれにせよ夫の浮気問題に思い悩んだうえでの失踪という点で、根本原因は記憶喪失説とそう違いはないともいえる。
その内容は、車で自宅を出たアガサはナンの家に一泊して必要な準備を整えてハロゲートに向かった。自分がハロゲートに向かった旨の手紙を残すことで、アーチーにすぐに自分の居場所がわかるようにしたつもりであったが、思いもよらぬ大騒動に発展しまったので、直ちには名乗り出られなくなってしまったのだという。この説は、非常に多くの疑問に納得いく回答を与える説なのだが、それ程は支持されていないという。
また計画説の異説として、この事件はアガサの売名行為だったとする説があるが、彼女の内気な性格を考慮すると、このような大胆な行為に及ぶとは考え難い。また、売名目的であれば、その後の完全なる沈黙が説明がつかない。
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アガサがこの事件の結果、マスコミに追い回され、いろいろと追及されて心に深い傷を負ったことで、これ以降の彼女の内面世界には大きな変化があったといわれている。また、その後のマスコミ嫌いの原因も、この失踪事件とされる。
それはメアリ・ウェストマコット名義(現在はアガサ・クリスティ名義に変更)で書いたいくつかの小説に強く表れている。そこには、家族や親子間での行き違い、許されないことの辛さ、女性の孤独、愛することの傲慢さや残酷さといったことが巧みに表現されており、多くの女性読者の支持を集めた。特に『春にして君を離れ』(1944年)は世界中で高い評価を得ている。
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尚、この失踪事件を題材にして独自の解釈でアガサをめぐる人間模様を描いた映画『アガサ 愛の失踪事件』が1979年に公開された。この映画は、事実をもとにしながらも独自のストーリーを展開したフィクションである。物語の後半で、失踪中のアガサ(ヴァネッサ・レッドグレーブ)に絡んでくるのが、ダスティン・ホフマン演じるアメリカ人ジャーナリストだった。ちなみに、夫のアーチーを演じるのはティモシー・ダルトンだ。
こうして真相は、永久に謎のままとなった。「ミステリーの女王」の謎の失踪事件。既にポワロもミス・マープルもいないことだし、謎は謎のままの方が良いのかも知れない・・・。
-終-
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