ジャンヌ・ダルクは、いろいろな伝説に彩られた謎多き人物です。男だったとか、しかも王家の血をひいた王子だったという説もあります。また処刑されたのは替玉で、本人は逃げ延びたという伝説も存在するのです。
だいたい、「神」の声を聴いて祖国フランスの為に立ち上がるところからして、非常に神秘的(いや、とんでもなく怪しい)ですよね。一介の超がつく田舎者の、しかも(失礼ながら)無知で文盲の若い娘が、現在の何十倍も男社会であった中世において、シャルル王太子の片腕として大活躍。貴族の大物や錚々たる騎士たちと対等に渡り合いながらフランス軍の戦闘指揮官として行動して行くのですからから、まさしく恐るべき女性です・・・。
ジャンヌ・ダルク(Jeanne d’Arc)は、15世紀のフランス王国の軍事指導者。「オルレアンの乙女(la Pucelle d’Orléans)」とも呼ばれます。また歴史上、今日に至るまで、勇敢で行動的な女性の代名詞とされています。
彼女は現在のフランス東北部のロレーヌ地方のドンレミ村で、農夫の娘として1412年頃に生まれたとされます。父親はジャック・ダルク 、母親はイザベル・ロメとされ、他の兄弟姉妹としてジャックもしくはジャクマン、(プチ)ジャン、ピエール、カトリーヌの4人がいます。尚、彼女の兄弟姉妹に関しては、人数についてはジャンヌを含めて5人というのが主な説ですが、長幼の順と名前については幾つかの説があります。しかしプチジャンは「小さなジャン」ですから、ジャンヌの弟であったことは間違いないと思われます。
その頃、ジャンヌの両親は現在でいう20ヘクタールほどもの土地を保有しており、父親ジャックは村の租税徴収や自警団のリーダーなども務める、我国でいえば庄屋のような立場にありましたから、決して貧農ではありませんでした。
またドンレミ村を含む地域(バル公領)は後にロレーヌ公国と同君連合により合体(更にのちにフランス王国へロレーヌ公国ごと再併合)されますが、彼女が生まれた頃は周囲をブルゴーニュ公領に囲まれてはいたものの、フランス王家(アルマニャック派)へ忠誠を誓う土地柄(名目上のフランス王領)で、その為、幾度もアルマニャック派と対立していたブルゴーニュ派の軍隊に襲撃されていたと云われます。
さて、やがてジャンヌは、イングランド王国との百年戦争で敗戦が続くフランス軍の状況に接し、神の啓示を受けたとしてフランス王太子シャルルに接見します。
その後、王太子の許しを得てフランス軍の指揮官(厳密には副官)の一員に任じられて従軍し、以降の多くの戦いで勝利を得て、王太子(後のシャルル7世)の王位継承に貢献し貴族に叙せられましたが、後にブルゴーニュ公国に捕らえられ、宿敵イングランドに売り渡されてしまいます。
ジャンヌが魔女として、(イングランドの意向により)火刑に処されてから25年後にジャンヌの復権裁判が行われ、その結果として法廷は、1456年7月7日に彼女の無罪と殉教を宣告し、名誉回復が為されました。
はるか後年になりますが、彼女は1909年に列福、1920年には列聖され、現在ではフランスの守護聖人の一人となっています。
ジャンヌはフランスの国民的ヒロインであり、世界的にも大人気の彼女を題材とした著作や絵画、音楽など、そして近年ではテレビ・映画などの映像作品等が世に多数あります。
《王家の娘説について》
フランス王のシャルル六世の王妃イザポー(イザボー・ド・バヴィエール)と、彼女の義理の弟オルレアン公ルイの不義密通の結果として生まれた女子が、後のジャンヌ・ダルクだとする説があります。
しかし、王家にとって都合が悪い存在だったこの子は、男子フィリップとして生後まもなく(1407年11月10日に)早世したとされ、父親のルイは敵対していた従兄弟のブルゴーニュ公ジャン1世の配下の者に、同年11月23日に暗殺されました。
実際には、この赤子は生きており、密かにロレーヌの(ジャンヌの父親とされる)ジャック・ダルクの元に預けられた、というのです。
またこの子は本当に男子であった、つまりジャンヌ・ダルクは実は男性だったという珍説も存在します。
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