王太子がジャンヌに彼の軍隊の指揮の一端を許した理由は、彼女(または彼)の言葉に「神の声を聞いた」とされていますが、現実的には、突然現れた見ず知らずの下層階級の娘に、フランス王家の未来を託すのはいたって不自然と思われます。
しかしその人物が、同じ母を持つ異父妹(もしくは弟)ならば、俄然、納得できる話になりますよね。
ところがこの一連の話は、当時からシャルル7世がシャルル6世の実の子供ではなく、王妃イザボーと王弟オルレアン公ルイの不倫の関係によって生まれた子供であるという噂が先にあり、その影響で生まれたともされているのです。
因みに1420年にイザボー王妃は、シャルル6世が死去した後のフランス王位を王太子シャルル(後のシャルル7世)ではなく、イングランド王ヘンリー5世とその後継者に譲るというトロワ条約に署名しています。そしてその時、王太子シャルルがシャルル6世の子ではないことを示唆したとも云われているのです。
まぁ、敵味方の区別なく不倫を繰り返していたとされるイザボー王妃は、当時から「淫乱王妃」とか「悪王女」とさんざん噂されていたのですが、後年、「フランスは女(イザボー)によって破滅し、娘(ジャンヌ・ダルク)によって救われた」との言葉が流布されたりもしました。また余談ですが、イザボーには二人の「ジャンヌ」と名付けられた娘(長女と三女)がいます。
この説の支持者は、ジャンヌが農夫の父親とその妻である母親に親愛の情を示すことがほとんどなかったと主張しています。また逆に父母の側も、このフランス王国を救った英雄、「オルレアンの乙女」に対して、あまり積極的に関わっているようには見えず、金銭的な報酬のやり取りばかりが目立ち、互いに親子の愛情表現は感じられないとされています。
それどころか、ジャンヌが敵方のブルゴーニュ軍に捕らわれた時も、彼らは、自分たちにまでブルゴーニュ派の追及の手が及ぶのではと、ただそれだけを恐れ心配している始末です。つまりまさしく金で雇われた里親であれば、当然と思われる態度が随所に見て取れるのです。
ジャンヌの生まれ故郷であるドンレミ村の人々も、あまり彼女との付き合いはなかった、とする説もあります。それは後に「神」の啓示を受けて祖国の為に立ち上がる様な娘ですから、幼少時から少々風変わりな少女だったからかも知れませんが、それよりは周囲の村人が彼女が初めから王家にゆかりのある高貴な人物であることを知っていたからではないか、と云われています。
そしてジャンヌには宮廷から派遣された世話係がついていて、貴族の礼儀作法や基礎的な素養・学問などを教授されていた、というのです。たしかにそうであれば、王太子シャルルとの面談に向けての行動においても、その後の活躍においても、田舎者の百姓娘にはとても困難なハズの立居振舞を難なくこなせた訳について、充分納得がいくというものです。
シャルル王太子との接見までの難関を順次突破していく道筋でも、彼女の出生の秘密が役立ったに相違ありません。ヴォークルールの守備隊長ロベール・ド・ボードリクール伯なども最初は門前払いでしたが、後に態度を豹変して彼女を丁重に扱い、護衛まで付けて王太子のもとへ送り届けますが、きっと秘密の暴露を受けての対応の変化です。
そしてジャンヌが王家の娘であるという説を信じる人達は、シノンの王宮で初めて王太子に会った際に、ジャンヌは人払いをした上でシャルル王太子に自分の本当の身の上話をしたのだろうと考えています。それ故に、彼女の話を聴いたシャルルの目には涙が溢れ出したという歴史的描写は、「神」のお告げの逸話に感嘆したのではなく、ジャンヌが長年離れ離れになっていた異父妹であるという感動的な再会話を聞いたからだ、とするのです。
また、彼女の「神」の啓示発言に端を発したその後のジャンヌに関わる宗教的な背景や身元の調査では、「彼女は異端ではないが、啓示を受けたかは定かではない」との結論だけを提示し、詳しい出生の事実は明らかにされていません。この時の調査内容を記載した「ポワチエ調書」は現在でもバチカン法王庁のどこかに保管されていますが未公開とされているようです。
法王庁にしてみたら、聖女に列したジャンヌ・ダルクが実は不義密通の庶子で、その立場を利用してフランス王国を救った人物であったとなれば、大変困った立場に追い込まれます。まさか今更、彼女を再び異端とすることも出来ません。そこでその事実が記載されている「ポワチエ調書」を隠して、真相を隠蔽しているのだという都市伝説が存在するのです。
後編は、ジャンヌ・ダルクの生存説をご紹介します。火刑に処されたという彼女が実は生きていたという有名な都市伝説です!!
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【歴史ミステリー】 ジャンヌ・ダルク伝説の謎に迫る!! 後編・・・はこちらから
【参考】
ジャンヌ・ダルクは、既に16世紀頃からはフランスにおけるカトリック宗派では、その存在が称えられる一種のシンボルとなっていました。やがて1849年にオルレアン大司教に任命されたフェリックス・デュパンルー がジャンヌを大いに賞賛する発言を行い、このデュパンルーのジャンヌに対する高い評価と功績の紹介が、1909年4月18日におけるローマ法王ピウス10世からのジャンヌの列福となって結実します。そして1920年5月16日には、ローマ法王ベネディクトゥス15世がジャンヌを列聖しました。こうしてジャンヌはローマカトリック教会派における、最も著名な聖人の一人となりました。
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