近代日本という国家の形を創りあげた人々がいる。当然、彼らは立派な偉人と称せられるのが普通だが、中には巨魁(きょかい:頭目・首領、普通は悪者の頭領という意味)と言われている人も多い。
シリーズ【この国を創った人々】は、光あるところには影ありとして、そんな彼らを敢えて綯交(ないま)ぜのまま、分け隔てをせずに紹介していく連作としたい。
栄えある第一回目としては、日本の鉄道王と呼ばれた4人を前・後編に分けて紹介する。
根津嘉一郎
(初代)根津 嘉一郎(ねづ かいちろう)は、1860年(万延元年)8月1日生まれで、1940年1月4日に亡くなった。甲州(山梨県山梨市)の商家の出身。地元の郡役所の書記、後に村会議員などを歴任。
その後、上京して株の相場師を経て甲州財閥を形成、1905年(明治38年)東武鉄道の社長に就任。倒産寸前の同社を再建、日本屈指の私鉄に育てあげた。
1904年(明治37年)より4期連続で憲政会所属の衆議院議員を務めた後、1920年(大正9年)以降、貴族院勅選議員となった。
根津は、東武鉄道をはじめ、南海鉄道(現在の南海電気鉄道)など国内の多くの鉄道会社への投資や再建事業に関わり、「鉄道王」と呼ばれた。そして24社もの鉄道会社と提携・資本関係を構築し、これらの多くの会社で社長などの役員に就任した。
しかしその経営手法は、事業に行き詰まった会社をタダ同然で買収して再建することで儲けるというものだったことから、「火中の栗を拾う男」とか「ボロ買い一郎」と揶揄(やゆ)されることが多かったと云う。
そんな根津ではあったが、「社会から得た利益は社会に還元する義務がある」という信念のもとに教育事業に力を入れ、1922年(大正11年)には旧制武蔵高等学校(現在の武蔵大学)を創立した。
更に、山梨県内の小学校へ200台にものぼるピアノ(後に根津ピアノと呼ばれる)やミシンなどを寄贈するなど、出身の山梨県の教育文化振興に大きく寄与した。
また、彼の死後、東京青山の自宅に設立されたのが「根津美術館」である。
小林一三
小林 一三(こばやし いちぞう)は、1873年(明治6年)1月3日に生まれ、1957年(昭和32年)1月25日に亡くなった日本の実業家であり政治家。
阪急電鉄や宝塚歌劇団をはじめとする阪急東宝グループ(現・阪急阪神東宝グループ)の創業者。山梨県巨摩郡河原部村(現在の韮崎市)の商家出身。
小林は慶應義塾大学卒業の後、1892年(明治25年)から34歳になるまでは三井銀行に勤務していたが、いち早く鉄道事業の可能性に着目していた彼は、1907年(明治40年)10月には箕面有馬電気軌道(阪急電鉄の前身)の専務に就任した。
業績不振が続く会社を盛り立てるため、アイデア・マンであった小林は、1910年(明治43年)には開発した沿線の住宅地分譲を始める。そして、なんと当時はまだ珍しかった月賦方式による分譲販売を実施して大成功を収めたのだ。
その後も沿線開発の手法は進み、同年11月には箕面に動物園、翌年には宝塚に大浴場「宝塚新温泉」を開設。そして1914年(大正3年)4月には、いよいよ「宝塚唱歌隊」(後の宝塚歌劇団)を創設した。
また1920年(大正9年)には日本ではじめてのターミナル駅(梅田)にデパートを隣接させる計画をスタート(当初のテナントは白木屋)させ、1929年(昭和4年)3月にはついに「阪急百貨店」という直営百貨店をオープンさせる。
そしてこの百貨店事業の成功が、1929年(昭和4年)に開業した六甲山ホテルなどのホテル事業や1932年(昭和7年)開設の東京宝塚劇場、1936年(昭和11年)の大阪阪急野球協会(阪急職業野球団、後の阪急ブレーブス)の発足、更に1937年(昭和12年)に設立された東宝映画といった興業・娯楽事業の展開に繋がっていくのだ。因みに、小林が遺した娯楽事業は数多くあるが、「私が死んでもタカラヅカとブレーブスだけは売るな」と遺い残したそうである。
政治家としては、昭和15年には第2次近衛内閣の商工大臣、1941年(昭和16年)からは貴族院勅選議員、幣原内閣で国務大臣、そして初代戦災復興院総裁等を歴任したが、その後、一旦、公職追放となる。
1951年(昭和26年)には追放解除となり東宝の社長となるが、1957年(昭和32年)1月25日、池田市の自宅にて急性心臓性喘息で死去した。
小林の経営方針は、自社鉄道沿線の宅地開発により周辺人口が増加し鉄道利用が活性化、その住民たちの各種需要、例えば買物や娯楽などを満たすことで更なるビジネス拡大に繋げること、としていた。また当時(戦前)から、顧客優先志向(例:ソーライス事件)で事業を進めており、彼の顧客のニーズを的確に捉えた商品開発は大いに評価されている。
これらの沿線開発と娯楽・観光事業のミックスは、以後、我国の私鉄経営のモデルとして他者が倣うこととなり、後編で紹介する五島慶太や堤康次郎などがその典型と云われている。
しかし小林は、個人的には自分に直接関係の無いことには極めて無関心であり、非常にドライな性格であったとも伝えられている。
尚、三代目サントリー社長の鳥井信一郎は小林一三の孫、プロテニスプレイヤーでテニス解説者の松岡修造は曾孫にあたる。
小林は美術蒐集家、並びに茶人としても著名であり、彼の収集した多くの美術品は、彼の雅号をとって「逸翁(いつおう)コレクション」と呼ばれている。また現在は、公益法人阪急文化財団が、小林のコレクションや貴重な関連資料等を収蔵している「逸翁美術館」、「小林一三記念館」、「池田文庫」の3館を統括して運営、一般公開している。
前編の二人は、奇しくも同じ甲州出身者となった。根津には少々山師的な印象が付きまとうが、その点、小林は誠実に見える。しかし彼も、一旦決めた事には相当頑固だった様で、また一部の関係者からは「神」と崇め(恐れ)られてもいたと云う。
そして、後編の二人もハンパじゃない個性の持ち主なのだが・・・。
-終-
【この国を創った人々】 日本の鉄道王(後)五島慶太・堤康次郎…はこちらから
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