【この国を創った人々】 日本の鉄道王(後) 五島 慶太と堤 康次郎 〈25JKI07〉

昭和電車1ダウンロード誰にも懐かしく馴染み深い鉄道があるものだ。幼い頃や学生時代、そして社会人となってからも悲喜こもごも色々な想いを運んでくれた・・・。そうした日々の、通勤・通学でお世話になってきた鉄道(私鉄)の大部分を、この人たちが創ったんだと思うと、正直なところ妙に感慨深いものがあるのだが・・・。

さて、それでは早速、前編の二人以上に個性(アク)の強い二人の「鉄道王」を紹介しよう!!

五島慶太

五島1200px-Goto_Keita
五島慶太

五島 慶太(ごとう けいた)は、1882年(明治15年)4月18日に生まれ、1959年(昭和34年)8月14日に亡くなった日本の実業家。東京急行電鉄(東急)の事実上の創業者である。旧姓は小林、妻である万千代の家系である五島姓を結婚後に名乗った。

長野県小県郡殿戸村の農家出身。1907年(明治40年)東京帝国大学を卒業し官吏となる。農商務省、鉄道院を経て武蔵電気鉄道(現在の東急東横線の前身)の常務、1922年(大正11年)には関西の鉄道王である小林一三の推薦で荏原電鉄の専務に就任。その後、池上電気鉄道や玉川電気鉄道をはじめとする各私鉄や様々な競合会社を乗っ取る形で次々と買収し支配下に収めていった。

以降、三越百貨店問題での三井財閥との確執や、東京地下鉄道社長の早川徳次を退陣に追い込んだ事件などの後、1933年(昭和8年)には東京市長選の疑獄事件に連座して無罪が確定するまでの半年間、五島は市ヶ谷刑務所に収監されていたこともあり、波瀾万丈の事業家人生を歩んでいく。

彼は、この様な強引な事業拡大策から「強盗慶太」の異名をとったが、鉄道や沿線開発の事業では優れた経営手腕を発揮した。

阪急東宝グループの総帥であり、先輩格の小林一三の事業展開から多くを学び、ターミナル駅のあった渋谷地区の整備や、そこに総合デパートを開設したこと、及び傘下の鉄道沿線の都市開発に注力したのは、小林の手法に近似しており「西の小林・東の五島」と賞された。

しかし単に小林の模倣に終わることなく、有力な教育機関を数多く誘致する(大岡山:東京工業大学、日吉台:慶応義塾大学、武蔵小杉:日本医科大学、その他多数)などして沿線の文化的価値を高めるとともに学園都市の住民を増やし、且つ鉄道通学者を増加させるといった方策も採用している。

また五島は、教育事業そのものにも強い関心を持っており、私財を投じて東横商業女学校を設立する。その後も、財団法人東横学園(現在は学校法人五島育英会)を設立して、武蔵高等工科学校(武蔵工業大学を経て現在は東京都市大学)を開設、更に東横学園中学校や東横学園女子短期大学(東京都市大学へ統合)を開校するなど、非常に熱心に学校運営に取り組んだ。

 

1944年(昭和19年)、東條英機内閣の運輸通信大臣に就任したことで戦後は公職追放となるが、追放解除後の1952年(昭和27年)に東京急行電鉄会長として返り咲いた。

戦後も、北海道開発(バス路線網の買収など)や伊豆の観光開発などに影響力を発揮、また、箱根の観光事業ではかつての傘下である小田急側を支援して西武鉄道の堤康次郎と対立、「箱根山戦争(合戦)」を繰り広げた。

五島も美術品のコレクターとして知られ、彼の膨大なコレクションの公開の為に「五島美術館」が創立された。

堤康次郎

堤1seibu7
堤康次郎

堤 康次郎(つつみ やすじろう)は、1889年(明治22年)3月7日に生まれ、1964年(昭和39年)4月26日に亡くなった日本の実業家もしくは財界人、政治家。

滋賀県愛知郡八木荘村の商人の息子。幼少期の苦労を乗り越え、1913年(大正2年)に早稲田大学を卒業した。

在学中に、後藤毛織という会社の株主総会に出席し、乗取屋に追及されていた社長を弁護した。これをきっかけに後藤毛織の株式を取得し、それを元手に三等郵便局長の権利と渋谷の鉄工所を手に入れたと云われている。

その後、次々に事業に挑戦するが失敗。起死回生を目指して軽井沢のリゾート開発を手掛ける。ほとんど詐欺師紛いの手法で村民を騙して広大な土地を取得して別荘地の販売に成功する。以後、箱根の開発にも着手、1920年には箱根土地(後のコクド)を設立。1921年には、沼津と三島を結ぶ駿豆鉄道を買収した。

また、目白での土地買収や大泉学園、国立・小平などの学園都市開発に着手し、国立に東京商科大学(現在の一橋大学)の誘致に成功するとアクセス交通網として多摩湖鉄道(後に武蔵野鉄道と合同)を開通させる。

以降、武蔵野鉄道の経営権を獲得、また出身地である滋賀県の近江鉄道や西武鉄道(武蔵野鉄道が吸収合併したが名称は西武のままとした)などの鉄道事集へも進出していった。

1940年(昭和15年)には、菊屋を買収した上で武蔵野デパ-トと改称してタ-ミナル駅でのデパ-トの経営に乗り出すが、このデパ-トが後の西武百貨店となる。

 

堤は、裸一貫から西武王国を築きあげ、政界にも進出して衆議院議長にまで上り詰めた立志伝中の人物だが、その一方で他人の弱みに徹底的に付け込んで商売を広げるといったところがあった。

不動産業では、土地を二束三文で買い叩き暴利をむさぼるのは朝飯前であり、更にその強引な土地獲得の手段は凄まじい。一説には、関東大震災の直後や戦争中の空襲後に、焼野原となった他人の土地に勝手に自らの所有権を掲示して、本来の所有者と法的に争い次々に強奪していったと云う。

しかし堤が大きく事業で成功するのは戦後のことで、戦前は失敗した事業も多く何度も倒産の危機に直面している。

また、その剛腕故に彼は「ピストル堤」の異名で有名だが、諸説ある中でも、ピストルで脅されても動じなかったというのが本当のところであろう。

更に、堤の女性好きは呆れるほど派手であり、その関係した女性は驚くほど多い。彼の子供は、嫡子として認めただけでも12人で、その実数は100人を超えるという説もある位だ。

 

政治家としての堤は、1924年(大正13年)、35歳の時に(札びらをふんだんに配って)滋賀県選出の衆議院議員として初当選して以来、その後も1963年(昭和39年)の総選挙まで合わせて13回の当選を果す。しかし、議員となったのも当初は土地買収に有利という理由だった様だ。また1932年(昭和7年)の44歳の時には、斉藤実内閣の拓務次官に就任した。

戦後は公職追放となるが、昭和26年に追放解除、早速、改進党から立候補し衆議院議員に当選。1953年には第44代の衆議院議長に就任した。

 

さて、戦後の堤の活動としてはホテル事業への注力がある。かつて西部グループの中核事業のひとつとして全国各地にあったプリンスホテルだが、特に都内にあるものは旧皇族や華族が所有していた土地に建つものがほとんどだった。

これは戦後間も無く、(課税免除を含む)特権廃止で財政難に苦しんでいた旧皇族(宮家)や華族たちから都内の一等地を買収(1950年に朝香宮邸→芝白金迎賓館、1951年には竹田宮邸→高輪プリンス、1953年に北白川宮邸、1954年には李王邸→赤坂プリンス)し、一部にホテル等を建設したものだ。そしてこれらは、皇族・華族の邸宅跡地に建設されたホテルであることを最大限にアピールする為に、「プリンス」の名を冠したと言われている。

 

また前述の通り、小田急グループと、その背後にいた五島慶太とは伊豆箱根地域の観光事業と開発の主導権を巡り、「箱根山戦争(合戦)」と呼ばれる熾烈な戦いを繰り広げた。

この闘いは、五島と堤が相次いで亡くなったことで、やっと停戦、和解となる。しかし互いに強引な商売で名を馳せた「強盗慶太」と「ピストル堤」の激突として今でも語り次がれている。

ちなみに、堤も他の「鉄道王」と同様に多くの美術品を収集したが、彼が集めた美術品の保存及び一般公開は、軽井沢のセゾン現代美術館で行われている。

 

堤は、過小資本と複雑な資本構造で実態の分からない企業グループを構築した上で、株式は公開せず、また極力税金は払わないという態度を貫いていた。

そして前・後編で紹介した4人の「鉄道王」の中でも、その悪党ぶりが際立っているのが堤康次郎である。

しかしながら、堤のバイタリティとがむしゃらな行動力、その大胆さや決断力は凄まじいものであることは確かであり、他の「鉄道王」たちに比べて計画性やまとまり感が希薄なことを差し引いても、スケ-ルの大きな稀代の実業家であることには異論がなかろう。

そして彼の様な、超肉食系男子? が近代日本の躍進を切り開いてきたことは間違いないと言える。

 

また、なんでこの人たちは揃いも揃って美術品集めに力を注いだのだろうか? 金持ちの象徴とか単なる対抗意識だけとも思えないが・・・。

4人の「鉄道王」を比べてみると、同じような事業で成功するには、同じような思考や性格を備えた人物が、これまた同様の(時としてあくどい)手法で仕事に当たる必要があるのかも知れない、と思えてくる。

-終-

【この国を創った人々】 日本の鉄道王(前) 根津 嘉一郎と小林 一三…はこちらから

 

《スポンサードリンク》