俸禄制度とは・・・
これに対し俸禄制度とは、家臣は自らの領地を直接支配は出来ず、禄に関しては、幕府や藩が徴収した米を支給されるという制度である。
例えば徳川家の家臣団の中でも、下級の旗本や多くの御家人には具体的な知行地が与えられていない者が多数存在したが、彼らは天領から収納されて一旦幕府の米蔵に納められた米を、禄として現物支給される者たちである。また、この現物支給される米のことを「蔵米(くらまい)」と言い、こうした者たちを「蔵米取り」と呼んだ。
またこの場合、蔵米は常に一定の決められた手取額となる。諸藩においても、中・下級の家臣の禄は蔵米とする場合が多かった。蔵米取りの者の禄高は「蔵米三百俵」のように俵数で表されるのが一般的であり、年三回に分けて支給されたため「切米(きりまい)」とも言った。尚、幕府ではこの切米取りのことを「現米取り」と呼んだ様である。
当初、蔵米は直接渡されていたが、後には札差に運送賃を払って必要分を屋敷まで運んでもらい、残りは手数料を払って売却後に金銭を受け取る方式が主流となった。
また、旗本や各藩の家臣などでも名目上の知行地を持つ者の場合は、地方知行制度と同じく各自の知行高に免(年貢の税率)を掛けたものを幕府や藩庁から支給されたが、これを「蔵米知行」といった。
蔵米での給与支払は、切米と「扶持米(ふちまい)」に大別される。切米は中・下級の家臣に与えられる禄そのもので、初めの頃は年一回の支給だったが、やがて二回となり、更には三回に分けて二月の「春借米(はるかしまい)」が全体の1/4、五月の「夏借米」も1/4、十月の「冬切米」で残り2/4が支給される様になった。
これに対して扶持米は、下級の家臣(蔵米取り以下)に支給される一種の補助手当(扶養・家族手当)の様なものであり、本来は限定的な手当だったが、例えば町奉行所の同心など、(実質世襲だが)名目上一代限りで代替わりの都度に新規召抱えとなる場合でも、もともとの家禄と同様に恒久的な手当として扱われていた。
また本来限定的な手当と説明したが、扶知米だけの極めて身分の低い者もいた。更に有力御用商人や名主(庄屋)にも扶知を与えられていた者がいる。
一人一日当たりの生活費用を、男は五合、女は三合の割合で計算した年間の玄米の量を一人扶持とし、「○人扶持」で表した家族の人数分を毎月支給とした。男であれば一人扶持は一ケ月に一斗五升、年間で一石七斗七升~一石八斗(年間日数により変動)を支給した。凡そ五俵であるが、計算上は端数を削った五俵として扱われ、これは知行高五石の蔵米に相当する。
尚、石という単位は米の量を表している。一石は十斗、一斗は十升、一升は十合で、一升の米は1.5kgだ。つまり一石(=2.5俵)は150kgであり一人が一年に消費する平均的な米の量とされていた。つまり、一石が一年間に一人の人間を養う米の量とするならば、純粋の一人扶持は一石であったと言えよう・・・。
また米の品質も幕府の場合、上米・中上米・中米・中次米の4等級に分かれており、高職者には上米、並職者には中米、無役の者には中次米を支給していた。
更に蔵米取りより下位の層に給金取りが位置する。これは最も低い格式で、禄が現金で支払われるのが給金取りであり、牢屋下男(給金一両二分一人扶持)など極めて身分が低い者は金銭で給与が支給されることがあった。
また、武士階級を揶揄するときに「サンピン」と言うが、これは三両一人扶持という最下層の武士を指す言葉から来ている。
役料・役金などの職禄・・・
江戸幕府の家臣の場合、これら以外に役職手当ともいえる職禄の「役料」があり、春・夏・冬の三回に分割して現米もしくは金銭によって支給されていた。しかし事務作業が煩雑であった為、特に幕末になると市場経済の発達に即して老中以下全て「役金」として現金で支給されることになった。
当初この役金は、遠国奉行をはじめとする一部の役職に対して、役料とは別個に支給されるものであった。役金を役料の代替手当とする学説もあるが、役料と役金は別のものであり主に地方勤務の職務の職禄として支給されていたとされる。
しかし江戸幕府は、慶応3年9月26日(1867年10月23日)に旗本や御家人に対する軍役を廃して、代わりに所領収益の半分を軍役金として徴収する制度を導入すると共に、布衣以上の役料・足高・役扶持等を全て役金に統一する改革を実施したが、大政奉還のために実現はしなかった。