【名刀伝説】 本多忠勝の名槍『蜻蛉切(とんぼぎり)』、11年ぶりに公開!! 〈1345JKI07〉 

この記事は天下三名槍の1つ『蜻蛉切』について解説するもの。併せて『鹿角脇立兜』や『黒糸威胴丸具足』にも触れる。

トンボ1蜻蛉切り(東博HPより)徳川家の猛将、本多忠勝が愛用したとされる天下三名槍の一つ『蜻蛉切(とんぼぎり)』が、三島市の佐野美術館で今月(1月)9日から始まった企画展に出品され、11年ぶりに一般公開された。そこでこの『蜻蛉切』について、忠勝の生涯と併せて紹介していこう・・・

本多忠勝の生涯

『蜻蛉切(とんぼきり)』は、天下三名槍の1つで、戦国時代の武将で徳川家康に仕えた本多忠勝(ほんだ ただかつ)が愛用した事で知られている。

本田忠勝1Honda_Tadakatu
紙本著色本多忠勝像

本多忠勝(従五位下・中務大輔、通称は平八郎)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての戦国武将で徳川家の譜代大名。上総大多喜藩の初代藩主で関ヶ原合戦後に伊勢桑名藩の初代藩主となる。

徳川四天王徳川十六神将・徳川三傑に数えられ、生涯57度の合戦に参加して一度(ひとたび)たりとも傷を受けなかったという徳川幕府創業期の功臣にして有名な猛将である。

安祥松平家(徳川宗本家)の最古参家臣団である安祥譜代、本多忠高の長男として天文17年(1548年)に、三河国額田郡蔵前(現在の愛知県岡崎市西蔵前町)で生まれた。

幼い頃から徳川家康に仕え、永禄3年(1560年)の桶狭間の合戦の前哨戦である大高城兵糧入れ戦で初陣を果たす。

その後14歳の若さにて、叔父の助力を断り独力で敵の首級を挙げた。

元亀元年(1570年)の姉川の戦いでは、家康本陣に迫る朝倉軍1万に対して単騎で突入、「平八郎を死なせるな」「忠勝を救え」といって彼を追尾した徳川軍の猛攻の切っ掛けを作った。また、この戦いにおける朝倉軍の豪傑、真柄十郎左衛門との一騎打ちも有名な逸話である。

元亀3年(1572年)の武田軍との一言坂の戦いでは、味方の退却戦を有利に導くために、『蜻蛉切』を頭上高く振り回しては踏み止まって敵軍の行く手を遮り、暫くして再び武田軍が追撃しようとする度に馬首を返すという見事な進退で殿軍を務めたという。

この一言坂の戦いでの忠勝の戦いぶりを、武田軍の小杉左近が「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」と賞賛した。(「唐の頭」は当時徳川家中で流行っていた兜などにつけるヤクの尾毛の飾り物を指す)

また織田信長には、その並はずれた武勇を「花実兼備の勇士」と讃えられたとされているが、その信長が明智光秀に討たれた本能寺の変の時には、家康に三河への帰還を強く勧め「伊賀越え」を行わせたとも伝わり、冷静な判断力をも持ち合わせていたことが伺える。

その後、主君家康が豊臣秀吉と対峙した小牧・長久手の戦いでは、500名ほどの小勢を率いて豊臣軍8万の大軍の進路を阻み、悠然と龍泉寺川に単騎乗り入れて馬の口を洗わせたが、この様子を見た豊臣軍はその泰然たる態度と伏兵を恐れ進撃をためらったとされる。

後年、豊臣秀吉は忠勝を「日本第一、古今独歩の勇士」と称し、また「東に本多忠勝という天下無双の大将がいるように、西には立花宗茂という天下無双の大将がいる」と述べたという。

関ヶ原の合戦でも、僅かな手勢で奮戦し90にも及ぶ首級をあげたという。また娘婿の(東軍)真田信之を助けて、西軍側についた信之の父・弟である真田昌幸・真田信繁(幸村)親子の助命嘆願に奔走し、なんとか家康の許しを得ることに成功した。

また、「蜻蛉が出ると、蜘蛛の子散らすなり。手に蜻蛉、頭の角のすさまじき。鬼か人か、しかとわからぬ兜なり」と忠勝を詠んだ川柳もある。

慶長14年(1609年)6月、嫡男の本多忠政に家督を譲って隠居したが、慶長15年(1610年)10月18日に桑名にて死去、享年63歳。

尚、戦では生涯一度も傷を受けることの無かった忠勝だが、ある日、小刀を使用していた時に誤って左手に微かな傷を負ってしまった。その時、忠勝は「本多忠勝も傷を負う様では御終いだな。」と呟いたが、その数日後に亡くなったという。

『蜻蛉切』の来歴と概要

さてその忠勝の愛槍『蜻蛉切』だが、美しい刃紋が特徴の笹穂型の大身槍であり、戦場で槍を立てていたところに飛んできて穂先に止まった蜻蛉(とんぼ)が真っ二つに切り離されたという逸話からこの名が付けられた。

穂(刃長)1尺4寸(約43.7cm)、茎1尺8寸(約55.6cm)、最大幅3.7cm、厚み1cm、重さは498g、樋(刃中央の溝)に梵字と三鈷剣が彫られている。「天下三名槍」の一つに数えられており、茎には「藤原正真作」の銘があり、村正の一派と言われる三河文珠派、藤原正真の作とされる。

柄の長さは当時の通常の長槍は一丈半(約4.5m)ほどだったのに対し、当初、この『蜻蛉切』は二丈(約6m)あまりの大槍だったとされる。しかし忠勝も、さすがに晩年には体力の衰えが表れたと見え、「槍は自分の力に合うものが一番」と言って槍の柄を三尺(約90㎝)ほど短く切り詰めたとされている。また柄は、青貝螺鈿細工が施されたものであったと伝わるが、現存はしていない。

尚、この槍は静岡県沼津市の実業家だった故矢部利雄氏の所蔵品であり、通常は公開されていない。

忠勝の愛用品

その他の忠勝の武具としては、前述の川柳にも詠まれていた兜の『鹿角脇立兜』が有名だ。鹿の角をあしらった脇立は何枚もの和紙を貼り合わせて黒漆で塗り固めたものである。

鎧は当世具足の『黒糸威胴丸具足』を使用。これは動きやすさから軽量の鎧・具足を好んだからだ、とされている。また自らが葬った敵方を弔う為に、戦場では肩から大数珠を提げていたとされる。

愛馬は『三国黒』といい、二代将軍の徳川秀忠より贈られた。この馬は関ヶ原の合戦で島津勢の銃撃により斃れたが、徒歩で勇戦する忠勝の姿をみた家臣の梶勝忠(梶氏は代々、本多家の家老となる)から差し出された軍馬にて窮地を脱したという逸話が残っている。

 

愛知県岡崎市の岡崎城内の「三河武士のやかた家康館」に『蜻蛉切』のレプリカが展示されているが、今回、三島市の佐野美術館で11年ぶりに実物が公開されている。

佐野美術館の企画展「ひとの縁は、ものの縁」は各種の名刀の他、漆工品、陶磁器など矢部利雄氏の所蔵品から約100点を展示しており、来月(2月)15日まで開催とのことだ。木曜日が休館日で、入場料は大人千円、高校生以下が500円。問い合わせは同館(電話055-975-7278)まで・・・。

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