幕末に江戸の三大道場と言われた三つの剣道場を、順番に紹介していきます。各々の道場からは、剣士としてはもちろん、維新の歴史に名を残した偉大な人物が多く輩出されました。初回は北辰一刀流、「玄武館」を取り上げます。
「位は桃井、技は千葉、力は斎藤」と云われた、幕末江戸の三大道場を3回に分けてご紹介します。先ずは千葉「玄武館」からのご案内。
「技の千葉」と言われた北辰一刀流、千葉周作の「玄武館」、及びその弟の定吉(貞吉)の「桶町千葉道場」の門弟としては、清川(河)八郎や山岡鉄舟(鉄太郎)、そして坂本龍馬(竜馬)などのビッグネームがいますが、剣士として著名な塚田孔平(玄武館四天王で「虎韜館」を創設)、山南敬助(やまなみ けいすけ/さんなん けいすけ)や藤堂平助、伊東甲子太郎などの新選組隊士、海保帆平(かいほ はんぺい)や小澤寅吉などの尊王派水戸藩士、森要蔵(玄武館四天王)などの幕軍側で敗死したものや井上八郎(歩兵奉行)などの幕臣、そして龍馬と同じ土佐藩士の毛利吉盛(恭助)など、これは他の道場も同じことが言えますが、もともとは尊王攘夷的な思想の持ち主が門弟に多かったのが、やがて佐幕派も討幕派も入り乱れて同門となっています。
現実味は極めて低いものの、講談や浪曲の『天保水滸伝』によると、流浪の剣客、平手造酒(ひらて みき)も千葉周作門下の俊英であったものが、酒乱のため破門されたと描かれています。
北辰一刀流の創始者である千葉周作成政は、寛政5年(1793年)に奥州陸前の気仙村(岩手県陸前高田市)で生まれ、父は千葉忠左衛門成胤とされます。
周作は、はじめは一刀流中西派の浅利義信に入門し婿となりましたが、教義に関する考え方の違いから後に離縁しています。また小野派一刀流(一刀流中西派)の中西忠兵衛子正にも師事していましたが、その教えに飽き足らず、諸国武者修行と研鑽工夫の結果、文政5年(1822年)28才の時、江戸日本橋品川町に「玄武館」道場を開き、家流の北辰夢想流の「北辰」と伊藤一刀斎/小野派一刀流の流れ「一刀流」を併せて「北辰一刀流」と名乗りました。その後、文政8年(1825年)、神田於玉ヶ池に道場を移しました。
周作は古い因習にとらわれず、進歩的で開明な感覚に基づき、武士に限らず広く町人たちに対しても「北辰一刀流」を教授しています。事理一体、合理的な組太刀と竹刀剣術を合せて稽古する教授法で、分かり易く短期間で身に付く修行法を開発したのです。
この為、門弟3,000余人をはるかに超え、入門者はひきもきらなかったとされます。そして後年、彼の指導法が近代剣道の始祖となりました。
また於玉ヶ池周辺は学者町であったため、文武両道、多くの門人が学問をよくしたともされます。そして、「玄武館」の斜め向かいには天神真楊流柔術の道場があり、剣術の北辰一刀流と柔術の天神真楊流を併習する者もいました。
こうして、現代の剣道に一番近い剣術の普及につとめた千葉周作は、安政2年(1855年)12月13日に、満61才で永眠しました。
周作の子には、いずれも天才剣士とも言われた、奇蘇太郎、栄次郎、道三郎、多門四郎の4人がいました。その中でも、次男の栄次郎は父を凌駕する遣い手とされ、ことに突業は抜群で、二段突や三段突、小手懸突、そして右片手上段は無類の強さであったとされます。
山岡鉄舟が若かりし頃、悪友ら10名と共に栄次郎に闇討ちを掛けたましたが、皆あっという間に倒され、恐れ入った山岡は感服して「玄武館」に入門したという逸話もあるくらいです。
二代目は三男の道三郎が継ぎましたが、その門下からは明治期の有力剣豪が多数育ちました。そこには北辰一刀流の四天王と言われた、門奈正、内藤高治、小林定之、下江秀太郎らがいました。特に下江秀太郎は後年、最強の剣士と称えられています。
しかし周作の子息たちは相次いで早世し、「玄武館」は衰退します。そして明治維新以降は、明治16年(1883年)、周作の孫にあたる千葉周之介(之胤)が、山岡鉄舟や井上八郎の助力で東京府神田錦町に「玄武館」を再興しましたが、後年、関東大震災の際、広大な道場や極意書等は灰燼に帰しました。
一方、周作の弟、千葉定吉(さだきち)も、幼少時から兄と同様に剣術を学びました。当初は、周作と共に「玄武館」の創設と運営に従事しましたが、やがて江戸桶町(東京都中央区八重洲付近)に「千葉道場」を構えます。
定吉の道場は周作の「玄武館」(大千葉)と区別する為に、「桶町千葉」または「小千葉」と言われましたが、「玄武館」と「千葉道場」の関係・交流は深く、実際には一体的に運営されていた模様です。
しかし、主に上級武士の門弟は「玄武館」で、下級武士や町・農民の弟子たちは「千葉道場」で学んだとの説もあり、定吉の「千葉道場」に館名が無いのはこの為ともされます。→異説あり
有名は門人には、なんと言っても坂本龍馬がいますが、他には定吉の息子の千葉重太郎や娘の(龍馬の許嫁とされる)千葉さな子、そして新徴組剣術教授方の柏尾馬之助(かしお うまのすけ)などがいます。
尚、周作と子供たちは水戸徳川家に仕えましたが、定吉と重太郎は鳥取藩池田家に仕官しました。
千葉定吉は、明治12年(1879年)12月5日に死去しました。また墓所は、現在も雑司ヶ谷霊園に存在しています。
日本史の中で「幕末・維新」が大好きなプチ歴女の私の、お気に入りの偉人たちが驚くほど沢山これらの道場で修行していました。 ある意味、維新の回天の震源地だったとも云える場所ですが、今でも跡地を巡る観光ツアーがある位、人気の存在です。
-終-
※次回は神道無念流、斉藤弥久郎の「練兵館」をご紹介の予定です。
【注意】
明治期以降、また現在の「北辰一刀流」の活動状況については省略しています。
【参考】
・幕末の三大道場に関しては、松崎浪四郎の言葉、「位は桃井、技は千葉、力は斎藤」という評が明治以降に広まったとされ、江戸時代当時にリアルタイムで呼ばれていたのではないとされています。
・心形刀流の伊庭秀業が開いた練武館を加えて、「四大道場」とする説もあります。
《江戸の三大道場》斎藤「練兵館」の巻、だ~ぁ!!・・・はこちらから
《江戸の三大道場》桃井「士学館」の巻、え~ぃ!!・・・はこちらから
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