「鬼丸国綱(おにまるくにつな)」は、天下五剣の一つに数えられる太刀。現在は御物であり、国宝指定などは受けないが国宝級の名刀である。
「鬼丸国綱」は、鎌倉時代初期の刀工で山城国の京粟田口派の刀鍛冶、粟田口国綱の作であり、天下五剣のひとつでもある。
粟田口派は鎌倉時代初期から中期にかけて、京都粟田口付近で作刀した刀工の流派。系図などでは国頼を初代、国家を2代とする。
国綱は、国友・久国・国安・国清・有国・国綱の粟田口六兄弟の末弟で、父は国家。本名は林藤六郎、左近将監を称する。兄の国友、久国、国安らは後鳥羽院の御番鍛冶に任じられ、国綱も隠岐国番鍛冶(兄たちと同様に御番鍛冶であったとの説もある)を務めたとされるが、これを疑問視する見解もある。後に、鎌倉幕府5代執権の北条時頼の招きに応じて鎌倉山の内に移住して、「鬼丸」をはじめ数多くの名刀を打った「相州伝」の祖の一人。
この粟田口派の作品で、在銘で現存するのは国友、久国、国綱らの作であるが、4代則国(久国の子)や5代国光(国綱の子)、6代吉光(久国の曾孫)なども名工として有名である。
さて「鬼丸」だが、刃長は二尺五寸八分(約78.2cm)、反りは一寸一分(約3.2cm)である。長尺で反りの強い豪刀だが、日本刀は平安時代から鎌倉時代に移ると太刀の刀身の反りが高くなり、またそれまでの特徴であった「腰反り」から刀身全体が均等に反り、刃長の中程に反りの中心点がある「輪反り(鳥居・京反り)」へと移行していく。「鬼丸」はその時期の作刀の特徴を代表する太刀で、先代や逆に後代の太刀と比較しても、より大きな反りを持っているのだ。
反りが大きく腰から先幅にかけて徐々に狭くなる姿は太刀の理想像とも言われ、刃文は「沸出来(にえでき)」の小丁子乱れで、腰刃を焼く。目釘孔上の棟寄りに「国綱」の二字銘がある。因みに、刃文は粒子がはっきりと確認出来るものが「沸出来」で、目に見えない位の細かな粒子が連続して線状に見えるのが「匂出来(においでき)」の刃文とされる。
拵は室町時代初期の作とされており、鞘と柄を「茶色皺革(しぼかわ)」で包んだ上に金茶色の平糸巻き、鍔を黒漆塗の革袋で覆った「革包太刀」様式である。この特徴的な拵は「鬼丸拵(おにまるこしらえ)」と呼ばれ、革包太刀拵の代名詞ともなっている。
ところで「鬼丸」の異名に関する逸話の主は、太平記では初代執権の時政とするが、これは時代考証的に無理があるとの説(国綱が東国へ移る前に死亡?)が主流だ。一般的には、5代の執権、北条時頼であろうとされているが、六波羅探題を経験した3代執権北条泰時であるとの説も有力である。
国綱を鎌倉に呼び寄せて作刀を依頼した人物という見方で考えると、時頼の場合は時代がやや新し過ぎるかも知れない。仮にそうだとしても「鬼丸」はギリギリのところでかろうじて国綱最晩年の作と推定される。
一方、泰時と国綱に関しては、次のような逸話が残っている。後鳥羽院が隠岐に流された時に供をした(との説もある)国綱だが、鎌倉からの招きに答えて「院の御厚恩を蒙りたる身なれば、御上の御在世中は当地を離れること思いもよらず」と断り続けた。しかしその後、後鳥羽院が崩御され1周忌が済んだ後には鎌倉へと下り、泰時の命により幾多の名刀の作刀に従事し、その褒美として良田三十町を下賜されたという。
結局は諸説あり、確定は出来ないが、泰時説の信憑性が高いかも知れない。
さて太平記によれば、鎌倉幕府の初代執権である北条時政は、枕元に夜な夜な小鬼が現れて眠りを妨げるという悪夢に悩まされていた。加地や祈祷の効き目もなく、遂には心労で倒れた時政の夢枕にひとりの翁が立った。その翁曰く、「儂は国綱の刀じゃが、小鬼を退治してやりたいのだが、錆で鞘から抜け出せないのじゃ」と語った。
そこで時政は翌日、早速、刀を清めしっかりと手入れをさせて抜き身のまま寝所に立て掛けておいた。やがて夜になると、突然刀が自ら倒れ、そばにあった火鉢の台に施された細工を切り落としたが、その火鉢の台座は銀で作られた鬼の形をしていたという。
それ以降、悪夢に悩まされることの無くなった時政は、この刀を「鬼丸」と名付け、宝剣として代々の北条家当主に受け継がれていくことになった。そしてこれが「鬼丸」伝説の由来であが、しかし事実は3代泰時以降に初代時政の逸話として由来を創作して、北条家の宝剣としての由緒と価値を創り上げたものであろう。