《戦国の終焉、大坂の陣の武将たち -1》 塙団右衛門直之 〈25JKI28〉

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「塙直行」 画:落合芳幾 東京都立図書館所蔵

来年(2016年)のNHK大河ドラマは『真田丸』、ご存じ真田幸村(信繁)を主人公とした作品であるが、彼と同じく大阪の陣で華々しく活躍し、そして散り際を飾った戦国武将たちを紹介するシリーズを始めることとした。

初回は「塙 直之(ばん なおゆき)」、「団右衛門(だんえもん)」といった方が通りが良いかも知れない人物で、後々、『難波戦記』などの軍記物や講談などで有名になった武辺者…である。

 

 

塙団右衛門直之(ばん だんえもん なおゆき)は、一説には永禄10年(1567年)生まれで、元和元年4月29日(1615年5月26日)に討死した戦国時代から江戸時代初期にかけての武将である。直之の諱は直次あるいは尚之とも言われる。通称も、はじめの長八から後に団右衛門と改めたとされる。一時期、出家した際には鉄牛と号した。

彼は、後世では団右衛門という通称とその猪武者ぶりで有名だが、前半生に関しては諸説があり、詳しくは不明だ。

まず、生まれは尾張の国羽栗郡竜泉寺村の農夫の息子という説がある。また同姓であるため、織田信長の家臣であった塙直政塙安弘の一族ではないかとの推測もあるが、もともとは遠江大須賀の出身で、一旦、大須賀忠政に仕えたが浪人となった須田次郎左衛門という人物であるとする説や、川井喜介と名乗って本多忠政に高禄(3,000石)で召し抱えられたたが後に出奔したとする説がある。

更に、東国の上総国養老の埼(もしくは里?)の出身で千葉氏の家来筋だったが、やがて小田原の後北条氏随一の豪将で玉縄城主、「地黄八幡」の旗印で知られる北条綱成(左衛門大夫)に仕えたが小田原合戦の後に浪人したとの説もあり、出自はまったく定まらない。

他の説には、猟夫出身で織田家臣の坂井政尚の家来となり、戦で功をあげて織田信長に取り立てられたが、酒乱が原因で罪を犯し放逐されたという説もある。

前述の塙直政と坂井政尚は、その履歴が極めて似ており何れかが本来の団右衛門の主君であった可能性が高い気がする。また当初、馬卒であったということや酒癖が悪く喧嘩ばかりしていたとの逸話も複数存在する。北条綱成の家臣説に関しては、「地黄八幡」の旗印と後述する加藤家の旗印や自身のPR戦略などでの類似性によるもので、多少強引な説ではないだろうか。しかし小田原合戦で奮戦したところを、参陣していた上方の大名に見初められた可能性は無くもないと考えられる。

何れにせよ、その生涯の前半は遠江から尾張・美濃、そして畿内にかけて活躍したと思われ、一時、浪人中には時雨左之助(しぐれ さのすけ)と名乗ったともされている。

 

やがて塙団右衛門は小早川隆景の家臣、瀧権右衛門に仕えて200石の知行を得ていたが、故あって浪人となり困窮したという。そこで豊臣秀次の付家老であった木村重茲(常陸介)の小姓達ちの世話で、伊予松山の大名、加藤嘉明に仕官する。

その後の朝鮮の役では、嘉明は青絹四尺半の真ん中に日の丸を描いた旗印を作らせたが、この旗印の旗手を歩小姓であった団右衛門に命じた。そして団右衛門はこの目立つ旗印を背負って大活躍し、度々武功をあげたことで350石の知行を獲得する。更に漆川梁海戦では、敵の番船三艘をわずか8名で乗っ取るという手柄も立てている。

団右衛門は以降、1,000石取りの鉄砲足軽の組頭に出世したとされるが、慶長5年(1600年)の関ヶ原の合戦の時に、鉄砲組の指揮を任されながら、命令を無視して自ら槍を手に敵中に突入してしまった為、結果、加藤家の鉄砲隊は戦力として有効な活動が出来ず、これが嘉明の勘気を被り、「将帥の職を勤め得べからず(=将の役目を勤める能力がない)」と強く叱責された。これに憤慨した団右衛門は、「遂不留江南野水 高飛天地一閑鴎(=小さな水に留まることなく、カモメは天高く飛ぶ)」との漢詩を残し出奔した。一方、この漢詩を読んだ嘉明も激怒し、「奉公構」を宣言して他の大名が団右衛門を雇うのを妨害する行為にでたのだ(後藤又兵衛基次の場合と似ている)。

因みに、嘉明が罪人の捕殺を団右衛門と藪与左衛門の二人に命じたが、命令に忠実であった与左衛門とは異なり、団右衛門は寒い日であったからか、捕物の最中に悠然と火にあたって暖を取っていたという。

これを検分した嘉明は、首級を挙げた与左衛門に白銀10枚を与え、団右衛門には、その豪胆さを賞して感状を与えただけだった。後に与左衛門の知行は1,300石に加増となったが、団右衛門の知行は1,000石に留まり、これに不満を持った団右衛門が致仕、出奔したのであるという異説もある。

以後、「奉公構」の身ではあったが、団右衛門は小早川秀秋のもとへ身を寄せる。ここでも1,000石取りの鉄砲大将となったが慶長7年(1602年)10月の秀秋の死去により主家は断絶、改易とされた為に浪人となった。またその後も不幸は続き、松平薩摩守忠吉の家臣、小笠原監物吉光を介して徳川家康の子息である忠吉に仕えたが、こちらも慶長12年(1607年)3月には忠吉が死去、嗣子が無く家系は断絶(正確には弟の徳川義直が継いだ)、再び浪人することになった。次いで福島正則が馬廻として召し抱えて1,000石の知行を与えていたが、加藤嘉明が正則に直接抗議して「奉公構」を守るように迫った為に、結局は解雇された。尚、小早川家、松平家は家挌が加藤家よりも上位の為に、嘉明も強硬な申し入れを遠慮したという。

この様な経緯から、遂に団右衛門も仕官を諦めて、妙心寺の大龍和尚のもとに寄宿し、一時期は剃髪して仏門に入って「鉄牛」を号したが、脇差しを帯びた姿で托鉢をしては檀家の不興を買ったとされる。また、常陸水戸の知人の許に身を寄せていたという説もある。

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