【名刀伝説】〈番外編〉 池波正太郎の世界から 長谷川平蔵の刀 〈1345JKI07〉

長谷川平蔵の主な愛刀は井上真改『粟田口国綱、脇差では『備前兼光』といったところだが、下記にシリーズ中から抜き出した具体的に名称が確認できる刀剣のリストを掲げて置く。ちなみに、大坂新刀系の逸品が多いのは池波先生の個人的な志向だろうか?

 

鬼平犯科帳』シリーズに登場する刀剣のリスト

刀の部

・井上真改 ニ尺三寸四分(鬼平2巻「妖盗葵小僧」以降、登場回数は4回)「柳生拵」との表現あり。

・粟田口国綱 ニ尺ニ寸九分(鬼平3巻「兇剣」以降、登場回数は34回)最も頻繁に活躍する愛刀である。

・河内守国助 ニ尺三寸五寸(鬼平5巻「兇賊」以降、登場回数は2回

・和泉守国貞 ニ尺三寸五分 -A(鬼平7巻「雨乞い庄右衛門」に登場)こちらのAは、剣友 岸井左馬之助に譲った刀。また同 ニ尺三寸五分 -B(鬼平20巻「高萩の捨五郎」以降、登場回数は2回)もある。

・近江守助直 ニ尺四(五)寸余(鬼平9巻「狐雨」以降、登場回数は3回)

・貞国(鬼平19巻「おかね新五郎」に登場)詳細は不明。

・相州綱広 ニ尺ニ寸四分(鬼平20巻「助太刀」に登場)

・加賀守貞則 ニ尺五寸一分(鬼平24巻「ふたり五郎蔵」より)子息の長谷川辰蔵に譲った刀。

脇差の部

・備前兼光 一尺一寸(鬼平5巻「兇賊」に登場)

・近江守久道 一尺七寸四分(鬼平15巻「剣客医者」以降、登場回数は2回)高杉銀平より平蔵が譲り受けたもの。

・宇多国宗 一尺七寸(鬼平18巻「おれの弟」に登場)

短刀の部

・藤四郎吉光(鬼平8巻「明神の次郎吉」に登場)詳細は不明、宗円から岸井左馬之助へ。

・新藤五国光(鬼平6巻「礼金二百両」に登場)詳細は不明、徳川家康から横田五郎右衛門義広を経て横田大学義郷へ。

十手の部

・六角十手 一尺五寸(鬼平1巻「本所・桜屋敷」より) 木柄に鍔付きとされる。

他者の所持刀

・河内守国助 ニ尺四寸余(鬼平6巻「剣客」に登場)松尾喜兵衛から沢田小平次が譲られた刀。

 

粟田口国綱について

粟田口国綱(あわたぐちくにつな)は、正確には生没年不詳だが、1163年前後に生まれて1255年頃に亡くなったとされる鎌倉時代初期の山城国京都粟田口の名刀工。本名は林藤六郎とされ、通称は藤六。左近将監・左近允・左衛門などに任じられ、藤六左近将監(藤六左近)などと称した。

後鳥羽天皇の御番鍛冶を務めたとされるが実際のところは不明。北条時頼(時政あるいは時宗とも)の招きに応じて相模国鎌倉山の内に移住し、北条時頼の為に“天下五剣の一つである御物『鬼丸国綱』(二尺五寸八分半、銘「国綱」)を作刀したとされる。他には『善鬼国綱』や短刀の『鳩丸』などが代表作。国友を長兄とする粟田口六兄弟の末子(六男)とも伝わり、また『能阿弥本銘尽』によれば、新藤五国光は国綱の子息である。

その作刀は古刀最上作と評され、室町幕府第13代将軍 足利義輝が特にこの国綱の作品を愛好したことから、多くの臣下が幕府への献上刀に国綱の偽名を切って差し出したという逸話もある位だ。

尚、その作風は通常の粟田口派が、小板目のつんだ精美な鍛えと直刃中心の比較的穏やかな刃文が特徴とされるのに対して、鍛えが板目で強く、且つ刃文も直刃ではあるが焼幅が広く小乱れを交えた沸の強いものであった。

井上真改について

井上国貞の刀は、鎌倉時代の名工 正宗の作刀に擬して俗称“大坂正宗”などとも呼ばれ、現在、重要文化財に指定されているものも存在している(今日現在、江戸期に製作された刀に国宝指定は無い)。また当時、2代目津田助広と並ぶ大坂新刀の名工と讃えられた。

彼の銘は壮年期までは「国貞」と切られ、晩年には「真改」と改められた。但し「真改」を名乗った時期は御番鍛冶となっており、その作刀数は少ないとされる。

国貞は、寛永7年(1630年)日向国の木花村木崎にて生まれ、京の堀川国広の弟子で大坂に移住した刀工 井上国貞の養子となる。本名は、井上八郎兵衛良次。慶安5年(1652年)、24歳で養父の死去に伴い「国貞」を襲名する。養父同様に飫肥藩伊東家に仕え、家禄150石を与えられた。同銘を切った養父と区別する為に、養父の作を「親国貞」と呼び、本人の作を「真改国貞」とも言う。

承応元年(1652年)、25歳の時に和泉守を受領し、銘を「和泉守国貞」と切る様になる。万治4年/寛文元年(1661年)、朝廷に作刀を献上したところ高い評価を受けて「十六葉菊花紋」を茎(なかご)に入れること許され、またこの頃より銘を「井上和泉守国貞」と改めた。

寛文12年(1672年)8月、儒者の熊沢蕃山(江戸時代初期の陽明学者)から「刀鍛冶が一国の国守を名乗るとは分不相応ではないか‥」と意見され、蕃山の命名で「真改」へと改称し、以後は銘も「井上真改」と切ったとされる。

その作風は、小板目のつんだ精美な地鉄に沸の深くついた大湾れの刃文を得意とし、見た目にも美しい華やかなものであった。

備前兼光について

初代の備前長船兼光は、備前長船長光の子であり、通称は孫左衛門。文永年間(1264年 ~ 1275年)頃の人物とされ、その作品は大業物とされる。長船景光の後を継いで長船派を率いた。岡崎五郎入道正宗の直弟子“正宗十哲”の一人とされ、現在でも重要文化財指定の作刀が現存している。但し、正宗の門人である点に関しては、年代的にみて疑問視する見解も強い

また初代兼光は、室町幕府を開いた足利尊氏の要請で太刀を鍛えたと云い、その褒賞に城の内築地(伝兼光屋敷跡)を賜ったとされ、この屋敷は長船の鍛冶頭が代々継承したという。

二代目の兼光(延文兼光)は、古刀最上作にして最上大業物の作者とされる。この備前国長船兼光は、延文年間(1356年 ~ 1361年)頃に活動した南北朝時代の人である。長船景光の子とも(異説あり)。左衛門尉、延文兼光と称され、現存する重要文化財の刀剣がある。

身幅が広く、相州伝を加味していることから「相伝備前」と呼び、この二代目をこそを正宗の弟子(“正宗十哲”)とする説を唱える刀剣書籍もある。

彼には作風に幅があることから、この兼光には初代と二代の二人がいるとする説が以前より支持されてきたが、現在では同一刀工に作風の大きな変化があったとして、同一の人物とする説も有力となっている。

延文兼光には、活躍当時の時代を反映して大太刀や寸延短刀など豪壮な作例が多いが、その作風は初期には景光に近い直刃や片落ち互の目などやや地味目なものが目立ったが、次第に「湾れ(のたれ)」に互の目が混ざった華やかな刃文を描く様になる。また地鉄に、「牡丹映り」と称される独特の映りが現れるものも多い。更に、刀身に彫刻を施したものも数多く見られる。

彼の作品には斬れ味に優れてたものが多く、重要文化財指定の『大兼光』(複数存在)や『福島兼光』、『大太刀』等の他に、『波泳ぎ兼光(波遊ぎ兼光)や『鉄砲切り兼光』等の異名を持つものも多い。但し、同名の刀剣を初代の作品とする資料も散見される。

他に、応永年間(1394年-1428年)頃に活躍した三代兼光や、長禄年間(1457年-1461年)頃の四代、天文年間(1532年-1555年)頃に刀工として活動した五代兼光が存在するが、通常、単に「兼光」という場合は、初代と二代を併せて、もしくは最上大業物の二代目「延文兼光」を指すことが多い。

 

次回は、同じく池波正太郎の傑作時代小説『剣客商売』シリーズに登場する秋山小兵衛の愛刀について紹介したいと思う‥‥。池波ファンには是非、ご期待下され!!

-終-

 

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