今回の【日本史-人物小研究】では、戦国末期の“三勘兵衛”をご紹介する。渡辺勘兵衛、杉江勘兵衛、辻勘兵衛の三人の武将を併せて指す言葉だが、渡辺勘兵衛以外はほとんど詳しい来歴が知られていない。但し、確かな事としては、その当時において三人ともに大変な剛将として各大名家の家臣たちの間で勇名が轟いていた人物の様である‥‥。
先ずは、羽柴秀勝の家臣として名を馳せた渡辺了(勘兵衛)から。
■渡辺 了(わたなべ さとる)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将である。通称は勘兵衛だが、実名は吉光とも伝わる。号は睡庵(水庵)。後述の石田三成の家臣・杉江勘兵衛や田中吉政に仕えた辻勘兵衛と並んで“三勘兵衛”と評された。
永禄5年(1562年)に、近江国浅井郡の土豪であった渡辺右京の子として生まれたとされるが、後に同族の渡辺任の養子となったと云われる。
当初は浅井氏の武将・阿閉貞征の家臣となり、貞征の娘を妻とした。“槍の勘兵衛”と称される程の槍の名手であり、摂津国吹田城攻めで一番首を挙げたことで織田信長から称賛されたと伝わり、阿閉家の精鋭部隊である母衣衆の一人であった。
天正10年(1582年)頃より、阿閉家(明智方として成敗されて滅亡)を離れて羽柴家に仕官、禄2千石で羽柴秀勝に付き従った。その後、山崎の戦いや賤ヶ岳の合戦で大いに活躍した。
だが天正13年(1585年)に秀勝が死去すると、それに伴い一次的に浪人してしまうが、次いで豊臣秀次の家老であった中村一氏に3千石で仕えたとされる。
天正18年(1590年)、小田原征伐に中村勢の先鋒として従軍、伊豆山中城攻略においては秀次軍の先遣隊が中村勢であり、彼はその先頭を切って城内への一番乗りを果たした。これには秀吉から「捨てても1万石は取るべき」と賞賛されたが、一氏からの恩賞は従来の知行の倍の6千石に過ぎず、勘兵衛はこの評価に不満を抱いて再び浪人となった。
その後、増田長盛に禄4千石で仕えたが、慶長5年(1600年)の関ヶ原の合戦で西軍方となった長盛の出陣中、居城の郡山城の守衛を任されたが、関ヶ原の敗戦後、既に長盛が所領を没収されて高野山に蟄居していたにも関わらず、「(私は)主君長盛からの命で城を守っている為、他者の指示によっては開城は出来ない」と城接収役の藤堂高虎や本多正純らにあくまで抵抗し、徳川家康の命令で長盛が開城を許可する書状を書いて送る迄、郡山城を守り通して、結局は無事不戦にて降伏したと云う。
その主君に対する忠義心と武将としての力量を賞して仕官の誘いが相次いだが、同郷(共に阿閉家に仕えたこともある)の藤堂高虎に2万石という破格の待遇で仕えることになった。藤堂家の居城となった伊予国今治城の普請奉行を務めるなど、武辺・槍働き以外の才能も発揮、やがて高虎が伊勢国に移ると上野城の城代となる。
大坂冬の陣では藤堂勢の前衛指揮官を務めるが、戦法に関して主君の高虎と対立。谷町口の攻防戦において長宗我部盛親の部隊に蹴散らされて、自らも落馬して負傷するなど大敗を喫したのだった。
同夏の陣の八尾の戦いにおいては、汚名挽回とばかりに長宗我部盛親や増田盛次の部隊に襲い掛かり、300余人を討ち取る活躍をしたとされる。
しかし、この活躍も独断専行が甚だしく、7回にも及ぶ撤退命令を無視して攻撃を続行した結果であり、戦勝は得たものの味方の損害もまた甚大で、高虎や藤堂家の他の重臣たちから疎まれる原因となり、その為に大坂の陣が終わると出奔して、またまた浪人となった。
その後も藤堂家との溝は深く、奉公構(ほうこうかまい/ほうこうかまえ)とされてしまい、以降、何度か仕官の道を探すものの、生涯、その望みは叶わなかった。
高虎の死後も、その子の藤堂高次が引き続き勘兵衛に対する奉公構を維持したことから他家への仕官が出来ず、その才を惜しんだ細川忠興や徳川義直らの捨扶持を細々と受けながら「睡庵」と号して浪人生活を続けたが、寛永17年(1640年)に京にて死去した。
続いては石田三成の家臣、杉江勘兵衛について。
■杉江 勘兵衛(すぎえ かんべえ)は、安土桃山時代の武将。初め稲葉一鉄良通の家臣、後に石田三成に仕えた。同じ石田家の武将、あの島左近清興や“舞兵庫”こと前野忠康と並んでその勇猛さを謳われた。
この勘兵衛は稲葉家に属していた頃、姉川の戦いでの活躍により武名を挙げた剛の者である。その後、良通と意見を異にし、稲葉家を去り浪人していたところを三成に拾われ、以降は同家の侍大将として重用されたと伝えられる。
さて、関ヶ原の合戦の前哨戦において、東軍の藤堂高虎や黒田長政、そして田中吉政らの兵は、大垣城から岐阜城へ西軍の援軍が進攻して来ると考え、これを阻止すべく岐阜城の西方・長良川の左岸へ向けて軍を進めた。
同じ頃、石田三成も前野忠康(舞兵庫)を主将として、杉江勘兵衛や森九兵衛といった足軽大将に約1千の兵を預けて長良川岸の河渡へと向かわせた。後に戦場となった河渡(合渡とも書き「ごうど」とも読む)付近へ着陣した西軍諸部隊は、前線の河渡堤に杉江と森の両将、そこから後方へ8町(約870m)の地点に舞兵庫という陣形で布陣し、一旦、迎撃体勢を敷いて待機していた。
そこに遅れて到着した東軍側軍勢は、既に西軍が布陣していたことに気づき、直ちに機先を制して激しい銃撃を浴びせかけたとされる。
ところがこの日は濃い霧が立ちこめていた為、前線の西軍諸部隊は東軍勢の進出を察知出来ずに、加えて朝食を摂っていたところに銃撃を受けて大きく狼狽し、かろうじて舞兵庫に敵襲来の事を注進したものの、準備が整わずにただ統制に欠けた散発的な反撃を繰り返すのみであった。
この時、東軍はまず初めに田中勢が川上の茱萸(ぐみ)の木原から渡河に成功、杉江らの軍勢に突入したとされる。それに続いて黒田勢も河を渡り、黒田家の勇将、後藤又兵衛基次や黒田三左衛門一成らは河渡の西側へと迂回し、舞兵庫の本隊に襲いかかった。
石田勢は、前線を守る杉江・森の部隊と舞兵庫の本隊が同時に攻撃を受ける形となって苦戦を強いられ、前方部隊は杉江が殿軍となって退却を開始したが、この時、勘兵衛はいつもの様に9尺の朱柄の鑓を振り回して奮戦していたが、奮闘及ばず田中勢に討ち取られてしまった。
ちなみに、この合戦で杉江勘兵衛を討ち取った者として広く後世に伝えられているのは、一般的にはいま一人の“三勘兵衛”、辻勘兵衛重勝である。
しかし実際には、最初、西脇五右衛門(西村五左衛門とも)が杉江と鑓を合わせて突き合いをしていたが負傷したところへ、主の田中吉政自身も駆けつけて声援を送る中、西脇が引き続き奮戦していた場面へ松原善左衛門(松原五右衛門尉とも)が来援して杉江を突き倒して首級を挙げたとも伝わる。
肝心の辻勘兵衛は、実はたまたま通りがかって杉江と少しばかり鑓合わせを行っただけとさえ云われる。但し辻はこの合戦の時、他の敵との組み討ちに功があり、別途、その功についての感状を与えられたとされるのだが、多くの伝承が杉江勘兵衛討ち獲りの功名を辻勘兵衛の手柄として伝えたのであった。たぶんに他の(名前も不確かな)2人と比べて、辻の武名が際立ったものだったからかも知れない。
尚、後年、田中家の改易の後、松原善左衛門は3千石余りにて越前へ、西脇五右衛門は禄高7百石にて肥後で仕官したと云う。
最後は“三勘兵衛”を締めくくる、辻重勝について。
■辻 重勝(つじ しげかつ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。田中吉政の家臣として武名を誇った。通称は勘兵衛(後に肥前とも)。
関ヶ原の合戦で岐阜城攻略戦に従軍。石田勢邀撃に参加、河渡中に交戦となり石田軍の殿軍であった杉江勘兵衛を討ったとされる。そしてこれは“三勘兵衛”の一人が他の一人を討ち果たしたことになる。
但し杉江勘兵衛の項で述べた様に、この事は厳密には誤りであり、多少、手助けをしたに過ぎないとの見方が有力である。
その後、吉政が関ヶ原の戦功で筑後国柳川32万石の大名になると、重勝も3千6百石余を賜り、猫尾城の城番を勤めた。
元和6年(1620年)、勘兵衛は田中家の改易後、浅野但馬守長寛の広島藩に仕えて6千石を領したとされる。
これら“三勘兵衛”は、前戦で活躍する足軽大将(中小部隊長)として名を馳せた剛勇の士だが、戦国時代を生き延びた渡辺や辻は、太平の世の到来をどの様に受け止めていたのだろうか‥‥。
ちなみに、“三勘兵衛”と云った場合、渡辺了に加えて御宿勘兵衛と小幡勘兵衛を指す場合もある様だ。
-終-
参考記事はこちらから ⇒ 《戦国の終焉、大坂の陣の武将たち -2》 御宿勘兵衛政友
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