慶長19年(1614年)、大坂冬の陣が始まると団右衛門は当時既に48歳(60歳を過ぎていたとの説もある)だったが、還俗して参戦を決める。
最初は、山縣三郎右衛門なる者を伴として、徳川方に味方する為に東海道を下ったが、徳川方は多勢であり功をあげても大きな褒賞は期待できないが、豊臣方ならば大功を上げれば大名にさえなれると相談し、引き返して豊臣方に参陣したという。
大阪入城後、浪人衆の1人として大野治房の元に預けられ、和議が迫った頃、志願して夜襲実施の許可を得て、同年11月17日、米田監物と共に蜂須賀至鎮の陣に夜襲をかけ、至鎮の重臣である中村右近垂勝を討ち取るなどの戦果をあげた。この戦いで蜂須賀家には100名(30名程度との説もある)以上の戦死者が出たといい、敗戦の隠蔽を計る程であったとされる。その時、団右衛門は本町橋の上に床几を置いて腰をかけて夜襲部隊(約150名)を指図し、引き上げに際しては「夜討ちの大将 塙団右衛門直之」と書いた木札を敵の陣中にばら撒かせた。これは明らかな売名行為、立派な自己PRであるとともに、旧主の加藤嘉明に対して自分には将帥・采配の才もあることを示す為、だったともされる。おかげで小戦闘でありながら、団右衛門の狙い通り『塙団右衛門直之』の名は敵味方多くの将士に知れ渡ることになった。尚、この戦いは「本町橋の夜戦」と言われており、大野治房からの相談を受けて後藤基次が企図したものだともされている。
翌元和元年(1615年)4月29日、団右衛門は大阪夏の陣の前哨戦である紀州攻めに大野治房の配下で参加、樫井(現在の大阪府泉佐野市)の合戦では豊臣方の将として一軍を率いて、和歌山城から北上する徳川方の浅野長晟の軍勢と接敵する。
しかし、味方の岡部大学則綱の部隊が先行していることを知ると激昂、先鋒争いの末、またも勝手に敵陣へ単独で突入してしまう。
孤軍で突出したことで治房本隊や和泉国の一揆勢との連携も取れないままに、戦闘は大混戦に陥った。団右衛門は浅野家臣の田子(多胡)助左衛門や亀田大隅、八木新左衛門、そして横井平左衛門ほかと交戦するが、一説には、団右衛門は田子の弓矢を額に受けて落馬したところを、八木に組付かれて首を取られた(他説では、亀田大隅あるいは横井平左衛門が討ち取った)という。
後に伝えられた話では、団右衛門は敵の軍勢に囲まれながらも馬上で槍を悠然と操りながら、次々と敵兵を突き倒していくが、遂に矢を射られて落馬したところを槍で突かれると、よろけながら懐紙を広げて敵前で悠々と辞世の漢詩を書き記したとされている。
中夏依南方 留命数既群
一生皆一夢 鉄牛五十年
またまた無茶な突撃をしているとも考えられるが、既に死に場所を求めての出陣であり、予定の行動だったのではなかろうか。ひたすら後世に名を残したいという一心で、槍を振るい辞世の漢詩を詠んだのかも知れない。
この時、団右衛門の朋輩、淡輪重政は団右衛門の奮死を見て敵陣に斬り込み討死するが、大野治房は願泉寺で食事中であり、この敗報を聞いて慌てて配下をまとめて退却した。豊臣方では奮戦の後に生還した岡部大学が団右衛門を見殺しにしたとの批判を受けて、一時は切腹を覚悟したものの、大阪落城の後には名を変えて隠棲したという。
団右衛門の墓所は、大阪府泉南郡南中通村大字樫井(現在の泉佐野市南中樫井)にあり、大阪府道64号和歌山貝塚線(熊野街道)沿いに、淡輪重政の墓と隣接して存在する。
ちなみに司馬遼太郎氏は、自身の短編小説『言い触らし団右衛門』の中で「さむらいとは、自分の命をモトデに名を売る稼業じゃ。名さえ売れれば、命のモトデがたとえ無(の)うなっても、存分にそろばんが合う」と団右衛門に言わしめている。
塙団右衛門直之は今で言うと、やたらと転職を繰り返しながら、我儘ばかり言っている偏屈オヤジってところかも知れない。確かに、転職先が次々と倒産したり、前の会社の社長に就職を妨害されたり、と不運の連続ではあるが・・・。
ところがここまで「ヤンチャ」で独りよがりも極まると、それなりの魅力を持つから不思議だ。 だが、あまりに勝手で猪突猛進が過ぎるこの人、上司としては扱い難い部下だっただろう。ちなみに加藤嘉明は冷静で家臣想いの大名と伝えられるから、よほど団右衛門が無茶な男だったのだろう。
しかし、彼の散り際の美学は昔気質の豪傑として、(アンチ徳川 = 豊臣贔屓の)江戸時代の庶民からの人気は高かったと思われる。
更に深読みすると(前述の通り)、大阪の陣に及んではそれほど単純な話ではなく、しっかりとした全般的な戦況分析から、実は冷静に豊臣方の敗戦やむなし(つまり戦国の世は終わり、二度と自分に人生逆転のチャンスは訪れない)との判断を基に、せめて自らの名声を後世に伝えようとの一心から己の行動を律していたのではないか、との推測も成り立つのだ。
近代の歴史の専門家からは、その売名行為と無鉄砲さを批判されてきた団右衛門だが、勝者(徳川幕府)の歴史を掻い潜り乍らその戦働きが語り継がれてきた背景には、歴戦の戦国大名たちが認めたその豪勇さで、実際に多くの信望を集めた武将だったとも考えられるのだ・・・。
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